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現代人とAI(レンマ学を読む②)

今日私たちが手にしている「学」の多くは、ロゴス的な知性に基づいて「いる。ロゴス的知性は「自分の前に集められた事物を並べて整理する」。この整理は言語の統辞法に基づいて行われるが、この情報処理は、神経組織でニューロンが行っている電気的化学課程と同じプロセスに従っている。ニューロンは感覚受容器で一時分類を施された情報を電気信号の形で受け取り、その信号にさらに分類を加え、「同じもの」と見なされた類似要素をひとまとめにして減縮をおこない、次の処理過程に送り出す。この過程は、ホモサピエンスである人類を用いている言語の処理方法と、基本は同じである。それ故に、ロゴス的知性は人類の脳組織の働きと、自然な形で適合する。中枢神経系と脳組織を持った人類の思考は、自然な形でロゴス的知性を生み出すと言ってもいい。

レンマ学 P16


1:ロゴス的知性

1:ロゴス的知性とは?

ロゴス的知性とは、自分の前に集められた事物を整理する事を意味する。これは、簡単に説明するとすると、自分の前に集められたものをごっちゃにしておくのではなくて、それぞれをそれぞれの場所に分類してしまうことといえるのかもしれない。

ロゴスというのは、ある意味とても綺麗好きで、汚いゴミ屋敷をひどく嫌う傾向がある。とにかく整理整頓が大好き。同じものは、同じところにまとめて、いつでも何がどこに収納されているかを把握しておきたい。これがロゴスといえるのかもしれない。

ロゴスはとにかく、分類せずにはいられない。何でも分類してラベリングする。これはAIも同じ。

分類して、それぞれにカテゴライズしないといても立ってもいられない。ロゴスは基本、混沌を嫌う。

綺麗に自分の部屋を掃除しなさい!と口うるさく行ってくる母親のようだ。どんなに汚い子供部屋でも、子供は、別に何かを整理使用とはしない。そのまま散らかしている。でも、子供の面白いところは、綺麗に整理シテおかなくても、何がどこにあるのかを意外にわかっていたりするところだ。

こうした働きを見ていると子供にはレンマ的な知性が色濃く残っているのかと思わされる。

2:口うるさいロゴス

ロゴスというのは、とにかく口うるさい。部屋の中にあるホコリ1つも許さない。まるで松居一代みたいだ。

整理整頓して、すべてをカテゴライズしていくのはいいけれど、それをあまりにも推し進めると大切なものを失っていく。きつく閉めすぎると、子供はもう何も散らかさなくなる。もっと言えば、自分で自分の自由を拘束する様にさえなる。

ある程度許容してあげないと、何も散らかす事の出来ない子供ができあがる。綺麗に物事を整理整頓する事はとてもいいこと。それはロゴスの働き。でも、中沢新一もいっている様に、人間には2つの知的把握の仕方がある。つまり、ロゴス的知性とレンマ的知性だ。

部屋をいつでも松居一代ばりに塵一つない部屋にしておくことは、ある意味ロゴス優位的な考え。もっと言えば、ロゴス至上主義。


それとは逆に、部屋をこれでもかって汚くしているゴミ屋敷にすんでいるような人は、どっちかというと、レンマ的知性優位だったりする。

でも大切なのは、この二つの知性を自分の中でうまくコントロールして使う事だ。ロゴス優位はレンマが見えなくなっている証拠だし、レンマ優位はロゴス(秩序)が見えなくなっている。

この二つは常に一つにつながっている。なので、その時その時で配置を変える。ロゴスが顕在化している時、レンマは潜在化し、レンマが顕在化しているときは、ロゴスが潜在化している。

3:顕在化したロゴスと潜在化したレンマ、顕在化したレンマと潜在化したロゴス

中沢氏も言っている様に、人間にはこの二つの働きがある。ロゴスとレンマどちらかが、表なら、そのどちらかが裏ということになる。でも、最近色々な人間を観察していると、人はもはや、顕在化しているところしか見ていないともいえる。つまり、レンマの働きを持たない、直交補を持たないAIにより近づいている気がする。

人間が、AI化していると言うことになる。人間のレンマ的な表現が近年徐々に薄れてきて、私たちの使う言語も記号論的に戻ってきている気がする。言語の持つ豊かな表現が薄れ、ただの情報を伝えるだけのツールに化している。

もっといえば、中沢氏が著書の中で危惧しているように、私たちはレンマという大切な知性との関係を今少しづつ絶たれようとしているともいえる。これはとても大変な事だと私は考えている。

言語がもつ豊かさが消え、表現の幅が消え、私たちは再び2次元的な言語、もっといえば、一元的な言語しか扱えなくなるのではないかと思ったりする。

3:ニューロンによる情報の減縮と昇華

ニューロンは感覚受容器で一時分類を施された情報を電気信号の形で受け取り、その信号にさらに分類を加え、「同じもの」と見なされた類似要素をひとまとめにして減縮をおこない、次の処理過程に送り出す。

ニューロンの働きを嫌う訳ではないが、この器官というのは、いってみれば、分類したものの中に入らないものは、どんどんと捨てていく消去法を取る。

カテゴライズ出来ないもの、それを不要と見なし、切り捨てていく。私はどうもこのやり方が好きではない。

ロゴスとは、意味のあるもの、ないものに分けるのがとてもお得意だが、その分別的な意識が私はあまり好みではない。

ロゴスは、いくつかにカテゴライズしたものに、どんどんと減縮を施し、それをもっともシンプルなところまでもっていく。ロゴスのやっていることは、いらないものは切り捨て、その一番トップだけを抽出するというやり方だ。

よくロゴス優位の会社などを見ていると、すぐにそういう会社は二元論的にものを考える。つまりそこには、ロゴスの分別的意識が強く働いていると言うことになる。彼らは、優秀なものしかいらないとそう言う。出来ない奴はいらない!と容赦なく社員を切り捨てていく。これぞまさにロゴス至上主義。

素晴らしいものを集めて、それでよい結果を出せると考えるのは、確かに間違いとは思わない。でも、よくかんがえて欲しいのは、それはAIのしている事と何ら変わりないと言うこと。

分類して、ラベリングして、カテゴライズして。それって見栄えはとてもいいかもしれない。でも、それだけに収まらずに生きてきたのが人間だ。もっとそれだけではないレンマの働きと共に進化してきたのが人間だ。

なのに、今はそのレンマを切り離し、ロゴス絶対信仰の人間ばかりになった。緩さがない。秩序を壊して、そこにあるすべてを混沌に引きづり込むそうした力を今の人間は絶対的に排除しようとする。

そんな人間に未来はあるのか?

今日のレンマ学noteはここまで。

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