耳の痛い話(制御不能な世界から、制御可能な世界への逃避)
この文を読んで、私の心は何か自分の中でずっとひた隠しにしてきた部分を暴露されてしまった気がして、なんだかとても自分が恥ずかしくなった。
一生懸命働いて、そして一時の気晴らしの為に遊びに出かける。その時没頭することが出来るゲームに熱中する。自分が在る程度コントロールできる楽しみに引かれる。これはあまりにも私にとっては的を得た答えでした。
わたしたちは日々、自分の携わる自分ではコントロール不可能な環境の中に放りこまれる。だから、その制御不能な世界の中では何もできない。その中ではただロボットの様に、自分の意思など何も持たずに、ただ求められたタスクを時間内に収めることだけを考えて、わたしたちは盲目的に動いている。
でも、この制御不能な世界の中に放り込まれて、一日その中でもまれて働いてくると、わたしたちは、そのバランスを取り戻すかのように、自分である程度制御可能な世界の中に身を投じていく。
コントロールできないものの中にいるからこそ、わたしたちはコントロール可能なものを強く求める。
こうしたことを考えていくと、わたしたちはいかに毎日制御不能な世界の中に身を投じているかがわかる。そしてその制御不能な世界の中で、徐々に不平、不満をその心にためていく。
制御不能な世界、つまり社会ではわたしたちに本質的な自由は与えられていない。自由だと夢を見させられているに過ぎない。その与えられた自由の中で、私たちは毎日せっせせっせと働いている。
でも、そこでは不満がたまる。だから、制御可能な世界を私たちは求める。
誰かを、そして何かをコントロールしたくてたまらない。自分の意のままにしたくて、自分の制御下に収めたくて仕方がない。そうしないと、私たちのライフワークバランスは保つことが出来ない。
わたしたち人間というのはとても不思議なもので、今自分がどのような状況下にいるのかをほとんどというか全くもって理解していない。
制御不能な世界にありながら、その中で与えられる自由に私たちは満足するように設定されている。なので、まず、この制御不能な世界の中にある事に疑問を持つこともない。もっと言えば、こうした状況にある種どこかで落ち着いてしまっているともいえる。
なので、この制御不能な世界をどうにかしようとも思っていない。これはこれで仕方がない。つまり、制御不能な世界にある時は一生懸命我慢して、そして、その世界を出た時に、一気に制御可能な世界を求める。
私たちは自分で何かを動かしている。自分がある程度の事をコントロールしているという状況に身を置くことがどうやらとても心地がいいらしい。
なので、この制御可能なものを持つことが出来なくなった時、その人は、一気にその精神をしぼませてしまう事になる。
自分の持っている力、これを私たちはいつもどこかで誇示したいという思いに駆られている。だから、その力を見せつけることが出来る場所、その力を大いに使える人を私たちは毎日目の色を変えて探し歩いている。
コントロール、自己制御、これらはわたしたちの最も奥深い欲求なのかもしれないと最近よく考える。
人間は、”私”が何かをするという事をしたい。その何かにされる人間は嫌。いつでも、”私”が何かをしたいのだと思う。私がDOしたい。ある程度の力をもって私が何かをDOしたい。
これは本当に人間の根本にある欲求の様に思われて最近仕方がない。
制御不能な世界ではなく、なにもかも自分で制御可能な世界に自分の身を置きたい。こうした私たち人間の根本にある欲求の背後にはいつも何らかの恐怖みたいなものが隠れているのではないかと最近よく考える。
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