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終わりのサポートを「伴走」と呼ぼう
私と「伴走」の本格的な付き合いは、2015年、シンガポールに住んでいた頃に始まりました。
夫と娘と2匹のローカル猫とののんきな南国暮らしに飛び込んできたチチキトクの知らせ。実際は危篤ではありませんでしたが、「1ヶ月後の話なんてとてもできない」というレベルの末期がんでした。そのとき想像したのは、「末期がんの父との最期の時間」というよくある介護だったのですが、実際には家族というマグマにぐつぐつに煮込まれるような、ときにバカバカしい珍騒動と疲弊の連続でした。しんどすぎて「早く死んでほしい」と思ってる状態にうんざりしたり。介護はこの「死ぬのを待ってしまう」現象が、介護者を苦しめます。辛さから逃げたいと思うのは当たり前のことなのに。
父が倒れてしばらくはシンガポールと故郷の福岡を行き来しながら、毎日家族からの電話だLINEだと騒動に拘束される日々。半年後に帰国して東京に住みはじめてからは、劇症型の皮膚病を発症した義父母の犬の看護と、留守番させていた超高齢猫の介護も始まりました。
2016年に父が逝き、2017年に猫が逝き、落ち着くのかと思ったら今度は義父が胆管がんを発症。それも相当に深刻な状態で、なんとか寛解まで持ち込めたことは奇跡でした。が、ほっとしたその1ヶ月後、福岡で独居中の母が認知症を発症しました。レビー小体型認知症という、パーキンソン病と同じ「レビー小体病」ともいわれる病気です。幻覚やうつ症状、パーキンソン病様の症状が特徴で、アルツハイマー型より進行が早いといわれています。
介護と看護がマーチのように続き、経験値がぐいぐい上がっていきます。父が倒れる1ヶ月前、2014年末には幼馴染をガンで亡くしました。義父がガンで倒れたときは、やはり末期がんで1年闘病した旧友と父のあとだったので、幸か不幸かガン対応経験値がずいぶん役に立ちました。
母や義父、義母も、いずれは私が看取ることになります。猫2匹も片方はシニアになりましたから、遠からず介護か看護の日々が始まるでしょう。それはでも、一概に「看護」とか「介護」なんて言葉でくくれるものではなかったりもするのです。自分の何かを提供しながら、ときに奪われながら、共に歩くこと。私はそれを「伴走」と呼びたい。
どんな命にも伴走者は必要で、たった一人でも伴走者がいれば、その一生は幸福だったって言えるんじゃないか。なんて思います。
だから、自分がその役目に指名されるなら、やるしかない。
まだ若いつもりでいたけれど、こんな風に、自分以外の命の都合に合わせるときが誰しもの人生にやってくるんだなあと淡々と受け入れつつ、母の遠隔介護の話題を中心に、終わりへ向かう命と共に歩くということ、老いるということの悲喜こもごもと、伴走者のサバイバル術を綴っていきたいと思います。いずれ自分が伴走される方になる日のためにも。
現在のステータス:
小4女児の日常を成り立たせつつ、毎日電話で母の生活を管理し、月2で東京から故郷の福岡へ帰って母のサポート体制(含む入居施設探し)を作っているところ。母発病より3ヶ月経過