【16才】小説#2/みずいろの作り方

 それは初めてのオーバードーズだった。飲み忘れていた薬や、処方が変わった為に余った薬を数百錠飲んだ。気が付いたら総合病院の内科に入院していて、ベッドの柵に手足を拘束されていた。何日間眠っていたのかわからない、自室で吐いたまま寝ていたところを母親が発見して、救急車で運ばれたらしい。それは初めての自殺未遂だった。
 誰も何の薬を何錠飲んだのかもわからない、前科も無かったので僕の拘束は目が覚めるとすぐ外された。一学期の終わり頃に入院した僕は、その後内科の大部屋に二週間箱詰めになった。診断名は急性薬物中毒、入院中することがないので、僕はYouTubeで反町の頃のGTOを全話観た。それでも暇で、一学期の終業式が終わった後はクラスの友人達がお見舞いに来てくれたり、二学期の始めにある学園祭の責任者になったりして、退屈を凌いだ。彼はステージ上の演台に立って「一身上の理由で退職する」と言ったらしい、全校生徒はざわついて、終業式が終わった後も彼の噂で持ち切りだったと、お見舞いに来てくれた友人は言っていた。
 僕は薬を間違って飲んで内科に入院することになった、という高校生相手なら騙せそうな嘘をTwitterのリアルアカウントで呟いて、案の定その設定で二週間この学校という狭い社会から雲隠れすることに成功した。学園祭で、30分間のクラス演劇の演出・脚本・監督を任されることになった僕は、その日の内に劇の題材を決めた。『千と千尋の神隠し』の物語のラストのシナリオを書き換えたものを行うことにした僕は、千と千尋の神隠しの児童用のハードカバーの絵本の文章を写しながら、脚本を考えて、構成を練った。
 ある日の午後、内科の看護師さんが白衣を着た人を連れてきて、精神科の先生を紹介するね、と僕に告げた。名前を名乗って自己紹介したそのお医者さんは、どうやらこれから僕の精神科の主治医になるかもしれないらしく、僕に様々な質問をした。僕はそれに淡々と答えた。何を聞かれて、何を答えたのかはハッキリと覚えていない、唯、彼は質問をし終えた後に貴女には精神科は必要ない、このまま退院していいと言った。
 退院後、僕は自殺未遂をしたペナルティーとして夏休みの間、部活動への参加を禁止にされた。僕が居ないと賞取れないけどそれでもいいの? と思いながら僕は顧問がいる夏休みの職員室に、当てつけのように通っては担任と劇の打ち合わせをして、職員室のコピー機でクラス全員分の台本を印刷した。完成した台本を捲って、大道具や小道具の設計図まで描かれている様を見て顧問は僕のことを見直したと言った。それで、僕のペナルティーは解除された。
 今回の騒動と、自殺未遂のことで失った信頼を、僕はどうしても取り戻したかった。クラスメイトからの人気も先生達からの期待もキープしたままでいたかった、僕は見捨てられたくなかったのだ。こういうのを、過剰適応というらしい。そんな僕の過剰適応が過剰にならないように声を掛けてくれたり、衣装探しなどを学校のパソコンで調べてくれたり、屋外練習で僕が神経質になり空気が悪くなると、黄色のメガホンを持って場を和ませたりしてくれたのは体育教師の椿くんだった。
 椿くんはあの日、学園祭が完璧に終わってから燃え尽き症候群のようになって、教室に入れなくなったことで授業を休む旨を職員室に言いに行ったあの日、僕を呼び止めた。季節は秋から冬になろうとしていた。学園祭の体育祭のアーチの責任者や、採用されたら団に点数が入る学園祭のパンフレットの表紙を描いたりもしていた僕は、学園祭準備期間の一ヶ月休むことなく働いて、部活動にも参加して、いざ学園祭が終わって気付いた頃にはぶっ壊れていた。学園祭翌日から何週間も外出出来なくなり、ようやく無理して学校に行けても教室が怖くてクラスに入れなくなった。椿くんは、きっとそんな僕を心配していたのだと思う。
 もっと僕を苦しめたのは、大人達が誰も今回の騒動の話をしないことだった。腫れ物に触るみたいに、授業を休んでも遅刻しても早退しても提出物を出さなくても、誰も何も言わなかった。僕はこの学校の生徒なのに、生徒じゃないみたいだった。
 「幽霊みたいだ」
 と思った。クラスに入れば居場所はある、だけれども、僕は居ても居なくてもいい存在だった。SNSを見ると、僕が居なくても友達達や他の部員達の日常はキラキラと輝いていた。椿くんは、そんな幽霊の僕を、幽霊になってしまった僕を、ちゃんと一年生の初めに体育の授業で出逢ったときのように、僕を僕として認識してくれた。風の噂で、将来はお寺を継ぐと聞いていたこの若い教師は、僕を呼び止めて、授業中のシーンとした校舎内の職員室の廊下に並べられた長机と椅子に座って、僕にも座るように言った。
 僕はその頃、殆ど物が言えなかった。はいとかいいえとか、愛想笑いとか、そういうバリエーションの技法しか使えないでいた。それは未だにそうで、上手く話すことが出来ない。砕けた関係だった椿くんに対してもそういうコミュニケーションしか出来なかった僕は、唯、茫然自失として座っていた。全てを知っている筈なのに、僕が表情や声色から察することが出来るような同情一つしないで、彼は何も言わないで、長机の上に無造作に置いていた僕の手の上に、自分の手を重ねた。それから彼は話し始めた、他愛のない話だった、僕はそれを聞いて頷いていればいいだけだった。聞かれたことに答えて、椿くんが笑って、それで僕は少し救われた気になった。あのとき目線を泳がせて窓から見た、レミオロメンの3月9日を連想させるような雲一つない晴れた空を、僕はずっと覚えている。
 結局僕はその日は保健室で休んで、その学期からずっと欠点を6教科か7教科取り続ける生活を繰り返すことになるのだが、僕は一度も成績のことを気にしたことが無かった。僕は自分自身を悩ませる精神の病気の問題が、一朝夕で解決するようなことではないとわかっていたから、進路だとか、先のことを考えても意味がないと思っていた。どういう風に生きても精神的な問題で辞めざるを得なくなる、これから先、もっと深淵に落ちていく予兆が、その頃の僕にはあった。
 後日談。あの日の廊下でお別れした後、僕が不登校の間に他校に転勤してしまって永遠の別れのように思っていた椿くんとは、今年母校を訪ねたときに8年ぶりに再会した。彼が再び転勤して母校に戻っていたことは5年前に先輩のSNSで見て知っていたのだけれど、中々タイミングが無くて会えなかった。椿くんは、髪型も服装も違うマスクもしている僕のことを覚えてくれていた。8年の月日など感じない程自然に会話をしていた僕達には、あの頃存在した問題など最初から無かったかのような錯覚を抱いた。10年に一度の問題児だと言われていた僕が最近は頻繁に母校に通っていることを知ったら、もう殆ど転勤してしまったあの頃の先生達は、どう思うだろうか、良かった、と思ってくれる気がする。あの頃幽霊だった僕に言ってあげたい、生きていたら、もう一度、椿の花が咲くよ、と。

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