エピソード5|嫌いって言ったら友達が増えていくらしいけど
よくわからないけれど物心がついた頃から人の悪口を聞いたり、みんなに同調して人の悪口を言ったりするのが苦手だ。嫌いと言った方がいいのかもしれない、聞くのも言うのも嫌悪感を憶える。偽善者だとか言われるかもしれない、そういう訳ではなくて、ただ自分にバチが当たる気がして怖いのだ。人の悪口を聞いていたり、言っていたりすると、その頃は神様なんて頭の中に無かったけれど、目に見えない何者かに罰せられるような気がしてそこに関わるのが恐かった。
だから人のことを嫌いになるのを極端に避けた、悪口を言われたら嫌いになってしまうから人から悪口を言われないように努めたし、揶揄われたら笑ったし、虐められたらその場で同じことを相手にやり返した。そうして、何をされても人のことを嫌いにならない自分が出来上がったような気がする。それでも嫌なことをする人はその都度現れて、憎んだり恨んだりしたけれど、そういう感情でさえも自分を穢して汚くしてしまう気がして、何かと理由をつけて赦しては無かったことにして忘れてきた。
本当は悪い子じゃないと、僕に原因があったのだと、僕が悪く無かったとしてもあの子は家族に愛されているし、友達も多いし根は良い子なのだと。社会的にその子を追い詰めてしまう何かがあり、その子は被害者で、その怒りや悲しみの矛先が僕に向かっただけなのだと思うこともしばしばで、そう思うことで誰も嫌いにならずに生きてこられた気がする。
なのでそんな訳無いだろと思われるかもしれないけれど、僕は今までの人生で一度も「嫌いな人」が出来たことがない。最大瞬間風速的に、あ、この人無理だ、と感じたらその瞬間に先ほど述べた様々な理由を頭の中でこねくり回し妥当な理由を見つけて、その人を嫌いな人という箱に入れずにどうでもいい人という箱に入れる。どうでもいい人という箱に入れてしまった人は関わりたくない人で、関わりたくないので興味もなく、文字通りどうでもよくなり存在さえ忘れてしまう。
そのような多分人からは共感されないような習慣が未だに僕の中にあって、人と関わる過程でいつもその習慣が出てきては僕を縛る。それはきっと誰かのことを嫌いになったり憎んだり恨んだりすると、今以上に自己嫌悪に陥るから、自分を嫌いにならない為の精一杯の僕の処世術だったのだと、今なら思えるのだけれど。
——虐待していた両親に於いてはその僕のルールは適応することは無かった、それでもそのことに就いては思い出すのも辛いのでいつか言葉に出来るようになったら話そうと思う。