エピソード2|Cogito, ergo sum

 八日間で小説を原稿用紙八十六枚分書いた、この儘のペースだと十分新人賞に間に合いそうで安心している。今日は三千字書けない日だった、千字ちょっと書いてから、『哲学と宗教全史(著・出口治明)』を三百三十ページ一気に読んで読了した。一つ前のnoteで書いた「神の存在証明について」「哲学の絶対者の神が、キリスト教の神と同一だと考えられるようになった経緯」の僕の疑問がやっと解決した。答えはトマス・アクィナスとデカルトとの関係性にあった。矢張り鍵を握っていたのはトマス・アクィナスだったのだ。以下『哲学と宗教全史』より抜粋。
 「20年を超える諸国遍歴の中で、デカルトが考えていたことは、トマス・アクィナスが構築した神を中心とした世界に代わる、新しい真理が支配する世界をつくることでした。」
 「かくして、『我思う、ゆえに我あり』。このことだけが真実であるとデカルトは言い切ったのです。デカルトは、そして、これを自分の哲学の第一原理として掲げました。」
 「この自分の存在こそが絶対的な真理であって、この真理こそが人間にとって、世界にあるすべての真理に優先するものだと彼は断じました。かつての神の存在がそうであったように。」
 「こうしてルネサンスに始まった人間復活の潮流は、宗教改革による荒廃を経て、Cogito, ergo sum. の登場によってほぼ理論上では完成したように思われます。人は神から完全に自由になったのです。」
 「人間は神から自由な存在であると言い切った上で、デカルトは改めて神の存在を証明しました。」
 「〜このように理論を展開し、デカルトは神を信じ信仰の世界から独立した形で、自分自身で構築した哲学によって、神の存在証明を改めて証明したのでした。」
 「トマス・アクィナスは、哲学は人間と自然の世界にだけ通用し、死後と宇宙の世界については通用しないと述べました。神の恩寵によってつくられた世界の実在を、信仰によって信じる以外に世界の真理を求める道はないのだと。しかしデカルトは信仰とは無関係に、真理としてコギト・エルゴ・スムをおきました。そして独自の哲学の体系を打ち立てる中で、神の存在証明を行ったのです。このことは人間の自我を神の名によって束縛することを許さない、純粋な自我の世界の確立であったと思います。」
 ここでやっと、キリスト教の神と哲学の神の関係性と、絶対者としての神とキリスト教の神はどう違うのか、どう云う風に分けられているのかがわかった。ゾロアスター教から勉強して、旧約聖書の成立から新約聖書の成立まで、アウグスティヌスの存在、宗教改革、大陸合理論、やっと全てが繋がった気がする。大学の哲学と宗教の講義を纏めた本『君ならわかる哲学(著・古牧徳生)』を去年の夏辺りに読んでいたけれど、やっぱり年表に従って一番昔のゾロアスター教から始めてタレスから照らし合わせていかないと不十分だった。ソクラテス、プラトン、アリストテレスの流れがやっぱり好きでどうしてもソクラテス前に意識を向けていなかったから、今回の疑問は半年以上も解決しなかったのだと思う。だけれども、トマス・アクィナスとデカルトが繋がるとは思わないじゃないか。学校で一度も哲学について教わったことがないんだもの、手加減してよ……笑


 そんなこんなで今日は二十一歳の頃に閉鎖病棟で読んでいた『若きウェルテルの悩み』を読み直したり、『赤と黒』の上巻を読んだりしたかったのだけれど、深夜帯にやっていた数年前から好きだったテレビ番組『クレイジージャーニー』を久し振りにゴールデンで観て、今まで諸事情で追えていなかった分を追いたいなとか、好きな俳優さん達のドラマが溜まっていてそれも追えていなかったりで、推しの作品はちゃんと観たいなとか思い出していたけれど、そこまで辿り着けなかった。そもそも出だしが遅いんだと思う、十三時にベッドから出るのだ。
 それでも最近(ここ約一年間)はTwitterを本気でやっていないから時間を無駄に浪費することは無くなった。昔は沢山バズっていたのだけれど、もし自分の作家名が世に出たときのことを考えたら、この先、今まで呟いていたようなことは何も呟かない方がいいと思ったのだ。デジタルタトゥーはなるべく無い方がいい、傷はなるべく浅い方がいい。バズってフォロワーを増やすよりも、小説の方で有名になってフォロワーを増やす方がいい、Twitterと云ういつか消えるかもしれないコンテンツに投資するのは無意味なように思えた。みずいろのアカウントは十五歳の頃から使っているので未練があって消せないだろうし、もし万が一水色爽として活動することになったときには、あのアカウントを継続して使うだろうなとも思ったからだ。良くも悪くも昔のように呟けなくなったと云うのが一番の理由なのだけれど。
 感性が乏しくなったわけじゃない、分別がつくようになったのだと思う。感傷的にならなくなったわけじゃない、感情的にならなくなったのだ。書けなくなったわけじゃない、書かなくなっただけなのだ。……と、もういいねしてくれなくなったフォロワーさんには伝えたいけれど、もうその人達に縋る必要性も感じていないから、それもしなくていいと思っている。
 それでも僕は大丈夫になった訳ではない、一昨日、通院時に問診票をポケットから取り出そうとしたら、小さく折り畳んだ紙の束で中指を切った。最近、皮膚が薄いのかすぐ怪我をする、ニキビから血が出たり、鼻血が出たり。その指が切れてそのまま問診票を書いて、看護師さんに絆創膏が無いか聞きに行った場面で、看護師さんから言われたことで激情的にならなかったなんてことはない。だけれども、その看護師さん達からの僕の評価に対する態度なら、それは妥当だと思った。そうしてそれはその人達の中にある僕に対する感情の所為であるし、僕の問題ではないと思った。どうでもいい、大した問題ではないと半ば諦めて、トイレで指の血を絞って暫く押さえていたら止まった。何もかも止まったから、僕は未だにその日の看護師さんから言われたことが映像記憶として反芻するけれど、受け流している。思い出して、落ち込むけれど、それさえも受け流している。僕は何でもないフリをするのが上手くなった、自分の気持ちに蓋をするのが上手くなった。だから僕が、大丈夫になったとか、そう云う訳では決してないのだ。それでもそう云う状態を「大丈夫になった」と定義するなら僕は大丈夫になったのかもしれない、——そう云う意味では。

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