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8月31日と「おやときどきこども」              

 夏休み最終日の今日。中1の息子とその友達をプールに連れて行くため、長くなるであろう…待ち時間のお供として選んだのは読みかけの『言語の本質』と『おやときどきこども』でした。

 プールへ行くにもいかにも中1男子らしい、いい加減な約束からの連絡のとれなさ…そしてドタキャン、飛び入り参加などなど、ゆるゆる&グダグダの時間を味わいながらも、久しぶりの再会に楽しそうな子どもたち。
不測の事態があっても動じない…【ものごと】に対する【あそび】=すき間を充分にもつ彼らにリスペクトを感じました。

そんなこんなで、車を走らせる中、こんな会話がありました。

(夏休みの感想、部活、明日からの学校について話していて、スマホをみながら)

「9月1日って、ジサツが1番多いんだって」
「あー(SNSで)みたー」

 彼らにとっては、スマホ越しの情報であり世界ではあるけれど…そういう事実があるのだと知ることができるんだなぁ〜と思いながら聞いていました。

子どもたちの会話はすぐに、別の話題に移りましたが、学校の成績がどうだろうと、運動がどうだろうと、お互いの凸凹を感じながらも‘それはそれ’とそれぞれが‘今’の等身大の自分を生きているような会話でした。



 子どもたちは、大人が設定したミッションの間隙を縫って束の間の遊びに興じます。それは子どもたち独特の、決して大人が奪うことのない才能です。そうやって遊びを忘れられない子どもたちの前には、自ずと世界が開けていきます。それを目撃する度に、私は何時も新しく子どもたちに出会いなおしたような気持ちになります。
子どもたちを見てみたら、一人ひとりの素晴らしさに気づいた。私はそんなわかったような話をしたいわけではありません。意味なく当たり前のようにころがっている無数の「自分独特の生き方」
を目前にしたときに、心の底から湧き上がってくる感動について話がしたいのです。

「おやときどきこども」鳥羽和久

 まさに、彼らは「自分独特の生き方」をしています。自分独特の生き方は転がっている、それが素晴らしいのです。

 この『おやときどきこども』がたくさんの【むかし、こどもだった大人】に届きますように。

 『学校に行きたくない』を選択するこどもたちのあたりまえの【自分独特の生き方】が尊重されますように。

 『大人は現実を生きているつもりで、実は(設定された未来の)ゲームを生きている。子どもはゲーム(感覚)を生きながら、今、ここ、のリアル(現実)を生きている。』
というような語りがあります。私の受け取り方なので、間違っているのかもしれないのですが。

 では、どこで【こどもはおとなになるのでしょうか?】。
 おとなは、いつまでも、自分のなかに〈こども〉を抱えて生きているのだと思います。

 『おやときどきこども』を読む度に、鳥肌が立つのは〈じぶんのなかのこども〉に出会うからなのかもしれません。

夏休み明けのこどもたちに
 「生きてほしい。」

いのっちの電話 090・8106・4666
坂口恭平さんもいます。

必要な方に届きますように。
 

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