【小説】奔波の先に ~聞多と俊輔~#119
22 江華島事件(2)
大久保利通が珍しく、落ち着きをなくしていた。その場には伊藤博文もよばれていた。
「全く、台湾が片付いたと思ったら、今度は朝鮮だ。あっちもこっちも勝手なことを」
「しかし、考えてみると、朝鮮に対して交渉をする良い機会かもしれません」
「だが、朝鮮となると血の気が多くなるものばかりではないか。戦だけは避けねばならん。台湾以上に清の動きも気になる」
「確かに、それにまた頭の痛くなる方から申し出がありまして」
「誰だ」
「木戸さんが、朝鮮への派遣使節に名乗り出ているのです」
「木戸さんは、体調も良くないと聞いているが」
「だからでしょう。まるで征韓論の時の大西郷のようです」
「他には、ここには黒田清隆と山田顕義といった者から自薦の文が届いているが」
「山田ですか。例えば薩摩と長州から一人づつ出すというのはいかがでしょう」
「それに越したことはないが。木戸さんを送るわけに行かないぞ。帝もお許しはなるまい」
「薩摩ならば黒田さんですか」
「黒田で行くしかあるまいな。そうすると、長州からでは山田くんでは色々と弱くないか。黒田の暴発を止められるようでなければ無理というもの」
博文は内心ようやく、チャンスがまわってきたと嬉しかった。にやけそうになる顔を、引き締めながら考えるふりをした。
「そうなると、なかなか居りませんな」
「誰か居らんのか、黒田の気性に負けないのは。あっ」
「そうじゃ。井上馨でどうですか。でも、裁判を抱えております。無理ですかね」
「鉱山の裁判のことだろう。なんとかできるかもしれぬ。もっとも、本人と大隈次第だが」
「大隈さん次第というのは、どういうことですか」
「あの裁判は大蔵省が、裁定の誤りを認めるかどうかに、かかっているとも言える。大蔵省が、とりすぎた金を返金すると、裁判が成り立たなくなるらしい。大隈はその立場に真っ先に気がついているが、動こうとしておらんということだ」
「でしたら、井上さんの説得は、僕に任せていただけますか。山縣にも手伝ってもらいますが」
「井上君ならば、木戸さんも強くは反対はできんだろう。よろしく頼む」
「大丈夫です」
そのころ馨は、木戸の朝鮮行きの話を聞いて、怒っていた。
「木戸さんどういうことじゃ。朝鮮に行って交渉をしてきたいなどと。それよりも、板垣の」
「聞多、今は卿・参議の分離は無理だろう。それよりも、征韓論が再び起こることのないように、朝鮮との交渉を平和裏に行う必要がある」
「大久保さんたちにやらせておけばええじゃないですか。わざわざ芋達の利になるようなことをする必要はないんじゃ」
「私が行って交渉を成立させることができれば、なかなか良い引退の花道にもなろう」
「木戸さん、そげなこと考えとるんか。あなたの一生の事務は、立憲政体の確立ではないのですか」
「私が引退すれば、君を参議にすることができるかもしれない。君が中心になって長州の官員を束ねるというのが、青木の考えでもあるのだよ」
「そうやって、わしを官に戻そうとしても無理・無駄じゃ。裁判がそもそも進展しとらん。今までだってそうだったでしょう」
「いいですか。朝鮮行きはわしは絶対反対じゃ」
ほとんど吐き捨てるように言って、馨は出ていってしまった。
木戸は庭を眺めながら、自分の体にも語りかけていた。もともと胃腸が弱いところ、頭痛とあわせて寝つくことが増えてきた。思ったよりも死は近くに、来ているのかもしれない。
博文は陸軍省の山縣のもとを訪ねていた。
「狂介、僕を手伝ってほしんじゃ」
博文が自分を頼ってくるとは、あまり多くないことだと、少し嬉しくなっていた。
「俊輔、頼ってくれるんはうれしいの。どういうことじゃ」
「江華島の事件はしっとるな。これをきっかけに朝鮮との国交を開くため、特使を送ることになったんじゃ。木戸さんが名乗りを上げておって、木戸さんを止めるためにも聞多に使節を引き受けさせるんじゃ」
「聞多さんを使節に。聞多さんの会社はうまく行っとるよ。ただ裁判のこともあって、元老院議官になれんかったばかりじゃないか」
「そんな事は狂介に言われんでも分かっとる。狂介以上にわかっとる。もっと問題は正使が薩摩の黒田清隆ということじゃ。黒田に勝てるんは聞多しかおらんだろう」
「黒田とは。酒を飲まんかったら普通に頭の切れる男なんじゃが、酒を飲むとなぁ。酒乱じゃったな。いや普通でも乱暴の気は確かにあるから、普通の気力の持ち主では堪えきれんな。誰にでも正論をぶつけられる聞多さんは、僕らの秘密兵器か」
「狂介、わかったようなことを言っているんじゃない」
「すまん。僕は聞多さんが一番つらいときに力になれなかったのが」
「そんなのは皆同じだ。だからと言って野に置いて良いわけ無いだろう」
「わかった。一緒に説得しよう」