【小説】奔波の先に ~聞多と俊輔~#109
20 辞職とビジネスと政変と(7)
東京に戻った馨を待ち構えたかのように、伊藤博文が押しかけていた。
「無事の帰国なによりじゃ」
「ずいぶんおらん間に変わってしもうた」
「そうじゃな」
「西郷さんらの朝鮮への使節の件どう思うんじゃ」
「わしには関係ないじゃろ」
「聞多、大事なことじゃ。戦にでもなればビジネスどころじゃないぞ」
馨は博文のほうを見て、仕方がないかとでも言うように話しだした。
「今の廟議なら反対派も増えたはずじゃの。例えば五分五分までいったとして会議の後、帝に上奏することになろう。三条公は経緯をすべてお知りだから、やりづらかろうが、岩倉公が賛否両論上奏されたら、帝はどうなさるかの。もし、三条公が倒れられたら…」
馨はいたずらっぽく、博文の顔を見た。
「わしが長州での御前会議の時を、思い出したまでのことじゃ。鍵は玉だろうなぁ」
「鍵は玉じゃと」
馨は笑っているだけだった。博文にはあっと思える言葉だった。
「五分五分に持っていければええんじゃな。となると、大隈と大木が鍵じゃ」
「そげなことはわしにはわからん」
「木戸さんとは話をしたのか」
「あぁ、ビジネスには納得しとらんかったがの。たぶん元通りじゃ。俊輔こそ大久保さんと、木戸さんの間で大変じゃの」
「今は、朝鮮の問題では一致しとるから、つなぎ役で重宝してもらっとる」
「そりゃええの。わしも頑張らにゃいけんの。陸奥が地租を物納から金納に改正してくれたのは、チャンスだと思っておるんじゃ」
「そういう陸奥は大隈と合わんで辞めたがっているらしいぞ」
「俊輔が引き取ればええんじゃ」
「工部省には適当な仕事が無いだろう。もったいないけどな」
そう話していると、部屋の外が騒がしくなっていた。
「どうしたんじゃ。うるさいぞ」
馨が怒鳴っていた。
「すいません、失礼します」
そう言って入ってきたのが、渋沢と益田孝だった。
「渋沢くんか」
博文が声をかけていた。
「あぁ伊藤さんがいらっしゃったのですか。申し訳ありません。この益田くんが、銀行の見学に来てまして。そのあとちょっと飲みに行ったら、井上さんとお話がしたいということになりまして。押しかけてしまいました」
「造幣寮に井上さんが推してくださり、勤務しておりました。そのあと井上さんがおやめになったので、私も辞めてしまいました。今は会社をご一緒してます。益田孝と申します。よろしくお願いします」
益田が博文に挨拶をしていた。乱入者が来たというのに、それを馨が笑いながら見ているのを、博文は今まで無いことだと思った。
「僕が使節団で欧米に行っていた間のこと。渋沢くんや益田くんが井上さんを支えてくれたのじゃね」
博文は笑いながらそう話していた。その様子を見て益田は、博文の目が笑っていないことに気がついた。
「渋沢さん、今日はお邪魔のようですよ。僕たちは失礼いたしましょう」
「別にもう一応話は済んでおるんじゃ。いっしょにええじゃろ。のう俊輔」
「僕はやるべきことがあるので帰ります」
「俊輔すまんの」
博文は席を立った。閉じられた部屋からは笑い声が漏れていた。その声を聞いて博文は一つ大きく息を吐いた。そして馨の家を出ると表情を引き締めて歩き出した。行く先は岩倉具視の屋敷だった。
「夜分遅く、大変申し訳ございません」
「なにか、対策でもおありなのでしょうな」
「はい。策を一つばかり」
「お聞きしましょ」
「廟議の後、御上へのご上奏は、岩倉様に行っていただくのがよろしいかと」
「太政大臣ではなくか」
「はい。三条公には病にてお倒れに」
「そのための準備で必要なのは、反対される皆様の出席でございます。五分五分になれば問題なく反対論も合わせて上奏できましょう」
「左様か。あいわかった。大久保にも木戸にもその事了承させて欲しい」
「分かりました。明日にも。それでは失礼致します」
岩倉の元を下がり、帰宅を急いだ。木戸と大久保のもとに文を送っておいたほうが良いかもしれない。もう馨とはそばで一緒に、やって行けなくなったのだと、改めて博文は感じていた。
翌日、博文は大久保の元を訪れていた。
「ほう、上奏ですべてをひっくり返すのですか」
「岩倉様もご承知でございます」
「これは伊藤くんが」
博文はすかさず「はい」と言おうとしたが、少し遅れた。これを見取った大久保は「ふむ」と声を立てた。
「井上さんは長州で殿のおられる、御前会議で藩論を覆そうとした経験を持っています。その時のことを聞いて考えたものです」
「なるほど、それは面白い」
「玉を味方につけろと」
「分かりました」
「そのためには、大久保さんの参議の就任ぜひとも」
「そうですね」
「木戸さんにも話をしておきます」
そう言って、大久保のところを出ていった。木戸にも同じような話をした。大隈と大木にも反対するように協力を求めた。
そして大久保は参議に就任した。