『野ブタ。』と『ブラック校則』に見る、令和時代の抑圧の話
なつかしの『野ブタ。をプロデュース』が再放送されていますね。15年前の作品だなんて信じられないほど面白い。(みんな見よう!)。
そして実は「令和の野ブタ」という謳い文句で話題になった作品があります。それがSexyZone佐藤勝利とKing &Prince高橋海人の出演する『ブラック校則』シリーズです(映画・ドラマ・hulu限定エピソードがあります。これまた面白いんですよ!! 『ブラック校則』の紹介は別にnoteを出すね)。
再放送を見ていて気づいたのですが、実は『野ブタ。』にも校則に関連する話があることに気がつきました。このエピソードを『ブラック校則』とちょっと比較して見たいと思います。
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『野ブタ。』第2話にて、堀北真希演じるいじめられっ子・野ブタは制服にペンキで「ブス」といたずら書きをされてしまいます。
傷つく野ブタですが、雑誌で取り上げられている流行の最先端のファッションに身を包むことでかえってみんなから一目置かれます。「制服が着用不可であり、私服で登校せざるを得ない」ことを逆手にとったわけです。
クラスメイトは手のひら返しで彼女を「かわいい」と賞賛します。そして「制服が着用不可なら私服OK」という校則の抜け道を見つけた彼らは次々に自らの制服を汚し、自分もいたずらされたので私服を許可しろ、と教師へ迫ります。却下されると親まで使う勢いです。
「あの子、うらやましい!」→「なんとかして自分たちも許可してほしい!!」という思考回路なわけです。良くも悪くも欲望に忠実ですね。
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14年後の『ブラック校則』ではどうでしょうか。
アメリカ人の父親を持つヒロイン・町田希央は地毛が栗色です。
染髪禁止の校則があるため、このままの髪で登校するには「地毛証明書」を提出しなければいけないのですが、彼女は家庭の事情からそれも叶わず、先生に注意され続けた彼女は不登校気味になってしまいます。(『ブラック校則』はそんな彼女のために校則を変えられないかと佐藤勝利演じる主人公・小野田創楽が奮闘する物語です。)
茶髪のままの町田希央について、クラスメイトの三池ことねは
などと意地悪く言及します(ことねは黒髪のさらつやロングをハーフアップにした、男子ウケしそうな美人です)。
しかし、ことねは映画のラストで「あたしもパーマかけたいんだ」と発言しています。ほんとうは自分も好きな髪型にしたいからこそ、自由な(ように見える)町田希央に嫌味を言ってしまうのでしょう。
制服が着用不可となった野ブタと地毛が栗色の町田希央は、ともに「不可抗力により校則を逸したヒロイン」と言えます。しかし、彼女たちに接した時の周囲の生徒の思考回路が
と変化しているわけです。①自らの欲望は抑圧し、②集団から逸脱しようとするものがいれば叩こうとする空気が形成されているように見えます。
ことねに限らず、『ブラック校則』の生徒は基本的に逸脱を志しません。
本当に人権に関わるような校則に対しては改正を求める生徒もまれにいるものの、「私服が着たいな〜」「髪染めたいな〜」といった欲望の発露は皆無であるかのように見えます。
なぜこのような転換が起こったのでしょうか。
以下は仮定ですが、ざっと考えてみました。
①理想像の清楚化
一つ前のnoteで『野ブタ。』は原作が2003年、ドラマが2005年とモー娘。の時代の作品であったと書きました。個性爆発な彼女たちが理想のアイドルだった時代です。
しかし今は(昔よりは理想像が多様化しているとはいえ)基本的には乃木坂、欅坂、日向坂など、清楚系坂道が理想とされているように思います。美しく可憐で上品な彼女たちが理想。男性にしても、ギャル男は主流ではなくなっています。
つまり、「校則をきちんと守るような清楚系」のモテ市場での価値が高くなったため、校則を逸脱してまで好きな格好をする意味がなくなったしまったのではないでしょうか。
映画内でことねがクラスメイトとモテる服装について議論をするシーンがあるのですが、
と、町田希央に話をふるも
と塩対応され、
と吐き捨てるシーンがあります。
「モテる子は違う」ということは、「自分はモテる子ではない」ので「男子ウケ」のために「着たいもの」を着られない、ということになります。このシーンでは希央への嫌味として言った言葉かとは思いますが、「男子ウケ」という呪いもたしかに欲望を抑圧する要因の一つのように思えます。
男女問わず清楚系に理想が移ったからこそ、そこから逸脱したくない、あるいは逸脱してしまうことで価値を損なうのが怖い、という思考回路になっているのではないでしょうか。
②昔は「格好良くありたかった」が、今は「イタくなりたくない」
『野ブタ。』には「いじめられっ子を人気者へプロデュース」というストーリーからも分かる通り、明白なスクールカーストが存在しました。「修二がいないと盛り上がんないよ〜!」と重宝されている修二はクラスの人気者ですし、その彼女(と、思われている)まり子は文武両道の学園のマドンナであり、「まり子の時代」とまで言われています。しかしいじめられっ子の野ブタはトイレで頭から水を被せられるなど、とことんカースト下位です。
このように明確なスクールカーストがある中では、恋人がいること、クラスで受けを取ることなど、「格好いい」ステータスを獲得し、カーストの上位を目指したいと思うのが自然です。
しかし『ブラック校則』におけるスクールカーストは比較的ゆるやかに見えます。
権力を握っている生徒・ミチロウはいますが、皆に恐れられ、嫌われています。優等生な生徒会長も部活でバカにされていますし、カースト上位とされることねもどこか中途半端。逆に隠キャとされる創楽は目立ちはしなくとも、普通にクラスでうまくやっているタイプに見える。いじられ役の子も存在するものの、『野ブタ』の世界のようないじめには至っていません。
このようにカースト自体がゆるやかな世界では、「格好良くあること」のメリットよりも、下手に目立って「イタいやつになること」のリスクの方が大きいのかな、と思いました。
③諦めと思考停止の空気感
『野ブタ。』第1話では、冒頭の「ガキが集まってるこんな中じゃ、マジになった方が負けだ」という修二のモノローグが印象的ですが、裏を返せば他の生徒たちは狭い世界で「マジ」になっていたわけです。
しかしブラック校則では、創楽と中弥が
と話すように、どこか気だるい空気が蔓延しているように思います。
彼らの高校では、実は校則では髪の毛やスカートへの明確な規定はありません。しかし誰も反抗せず、疑問も抱かず、先生の指示に従っています。
また、彼らの高校ではSNSが禁止されている反動で壁への落書きが流行するのですが、ここに中弥が啓蒙文を書き込んだところ、
という、バカにした反応しか返ってきませんでした。
創楽が「校則って変えられないかな?」と生徒会長に相談した時も、中弥が「自由を勝ち取ろう!」とクラスで演説をした時にも、白けた空気が生まれ誰も賛成しません。何に対してもどこか醒めた、諦めと思考停止の空気感が時代を取り巻いているのかもしれません。
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【まとめ】
とまあこのように、理想像が清楚化したこと、スクールカーストがゆるやかになったことにより「格好良くあること」よりも「イタくないこと」を志向する傾向になってきているのではないでしょうか。そして「皆と同じことが良いこと」とされる時代の中で、どこか怠惰な、思考停止の空気感が出来上がってしまっているのではないでしょうか。
しかし欲望が失われたわけではないので、集団を逸脱した人に対しては羨望と嫉妬が生まれ、ヘイトをぶつけ、自分と同じく抑圧されている側へと引きずりこもうとするわけです。自分のお給料が低いことへの不満を「公務員の給料高すぎるぜ!」というバッシングに変える的な感じで。
空気を読んで、イケてる「キャラ」を演じている必要があった『野ブタ。』の平成も確実に息苦しさはありました。そして今、また違う抑圧感が『ブラック校則』の令和に広がりつつあるのかもしれません。
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(注1)「制服に落書きが大流行事件」を比較してみる。
ちょっと脱線となるので「注」としてここに書きます。
冒頭で取り上げた、野ブタが制服にいたずら書きをされたという『野ブタ』第2話は、本人が「「ブス」といたずら書きをされたままの制服で登校する」という決断をすることになります。
これを見かねた修二は「制服にいたずら書き=イケてる」という価値観を作り出すことを思いつき、人気者である自分が率先して制服に落書きをして登校することで、学校中に大流行することとなります。
実は『ブラック校則』でもこれをオマージュしており、映画のラストは生徒がみな制服に落書きをして登校する解放的なシーンで終わるのですが、
これは「この格好をしてきたら、無料でいちごサンドを配る」というご褒美を用意したことでようやく発生した現象です。
おそらく、『ブラック校則』の世界で「この格好がイケてるんだぜ!!」と主張したところで超絶イタいやつと思われるか「こいつ頭大丈夫か?」と心配されるくらいが関の山だと思います(いちごサンドでも結構ギリだと思う…てかわたしはいらないけどな!)。