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明日死ぬとしても後悔しないか?

わたしは、「明日死ぬとしても後悔しないか」とか「明日死ぬとしても今と同じことをやるか」とか、そういうことを日々自分に問いかけて生きているわけじゃないです。

でも、たまーにSNSとかでそういう投稿が目に入るじゃないですか。

そういう時には、一応立ち止まって「明日死ぬとしたら後悔しないか?」と自分に問いかけてみることにしています。決めているというか、勝手に思考が進むというほうが近いけれど。

自分自身にそう問うて生きている人からの問いに、わたしも一応答えてみたくなるというかね。

明日死ぬとしても後悔はない

この習慣ができてからのことを思い返すと、毎回「別に後悔はないかもな」ということが多くて

明日死ぬとしたら「これもしたい」「こんなことしてないでもっと時間をこういうことに使いたい」「ここに行っておきたい」「この言葉を伝えておきたい」とか、そういうことなのかな。

「こうしていれば」みたいな後悔はおそらく、今想像できる範囲でいうとないんですよね。思いつかないだけなのかなあ。

でも、どれだけじっくり考えても、というかじっくり考えれば考えるほどに、ない。

2024年でやること、みたいに過去を先取りして予定を立てていることもあるから、その辺りができなくて悔しいみたいな気持ちは多少あるのかもしれないけれど。

でも、「もっと早くにやっておけばよかった」とは思わないかもなって。「できなかったか」という感じ?うまく言えないけれど。

もっと長くこうしていたかったという悔しさ

だから、思い浮かばないだけかもしれないし、本当に明日死ぬことになったら気持ちの変化があるのかもしれないけれど、いま現時点での回答は「後悔はたぶんない」になると思います。

ただ、思うことがあって。

「こうすればよかった」という後悔は多分ないんだけれど、「もっと長い時間こうしていたかった」という悔しさはたくさんある。

一番はきっと「もっと子どもたちと一緒に過ごして、これからの成長を見つめていたかった」ということだと思います。

それだけはやり残しというより、もっと長い時間を共にできたら嬉しかったなという気持ちとして、心から思うだろうな。

これは「やれていないから今からやろう」という話ではないから、「こうしておけばよかった」の後悔とは少し違うじゃないですか。

子どもの顔を24時間見つめていたって、10年後の子どもたちの姿に出会えるわけじゃない。5年後の子どもたちの喜びと悲しみを一緒に分かち合うことは、今どんなに頑張ってもできない。

長い時間を共にすることが望み

だから「明日死ぬとしたら後悔しないか」と自分に問うて生きていくよりも、「できるだけ長い間、この子たちと一緒に生きよう」と心に決める方がわたしにとっては意味がある。

やりたいことは「長い時間を共にすること」で、それは子どもだけではなく、人間関係においてわたしが一番望んでいることなのかもしれない。

いつも一緒でなくてもいいから、人生の長い時間を共にして、「あんな時もあったね」と大切な人と笑い合うために、今を生きている。そんな感じがするよね。

長く生きるために、健康でいたいのだけれど、健康でいることがとても難しくて「今、死ぬわけにはいかないな」と思うたびに、「死なないってどうやるんだろう」と頭が痛いよね。

それから、共に過ごすためには自分だけじゃなくて相手にも生きていてもらわないといけないから、こればっかりは願うしかないんでしょうか。ねえ。

ここまで書いて、「明日死んでも後悔しないように生きる」よりも「できるだけ大切な人の側で長く生きていたい」という方が、欲が深い感じがした。ちょっとベクトルが違う価値観のような気もするけども。

何はともあれ、欲があるということはいいことだね。生きる理由があるということだ。


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きよみや みずほ(mizuho)
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