欲深いのはいいのかわるいのか
先日、といっても結構前なんだけども。友人とランチをしていたときに「欲」の話をしていたところから、欲について考えているので書いておきます。
わたしはある時から物欲があまりない。友人は「物欲ありまくる」らしい。
誕生日が近づくとよく聞かれるのだけれど、ほんとうに思い浮かばないんです。自分の誕生日に子ども関連のものをもらおうとして「自分のものじゃないとだめです!」と義母に怒られたことがあったな…(笑)。
友人に欲しいものを聞いたら「サンダルが欲しい!」と即答してきた。そのあと、ちょっとだけウィンドウショッピングをしたら「このいろのTシャツが欲しかったんだよねー」と友人。
と驚きが隠し切れない私でした。
全然違うから話してて楽しいんですよね、いい関係です。
欲があることについて
友人は欲があることに対して、少しネガティブにとらえているようでした。でも、わたしはとてもうらやましいと思って友人を見ていました。
だって、自分がすきなもの・ほしいものがちゃんと自分で理解できているということだから。
わたしは、物欲というものがほんとうにない。
読みたい本はある。それは知識欲が発動しているので、物欲ではない。
自分のすきなものがいまいちわからない。欲しいものが思い浮かばない。ちょっと自分がかわいそうになってきたな。
ミニマリストとかシェアエコとか
ミニマリストという言葉ができたり、シェアリングエコノミーが流行り出した時代背景もあって、持たない幸せみたいなものが正しさを醸し出しつつある気がしています(急に話の主語がでかい)。
こんだけ物があふれていて、欲しいと思うものをほとんどの人が平等に持てる時代になって。そのうえで持たないという選択をするのは確かにちょっと幸福度が高まるかもな、と思ったりはしています。
でも、持ちたい人は持てばいいよねとも思う。私もどんなに電子書籍が流行っても、やっぱりお気に入りの本は手元に置いておきたいし。
どちらが正しいとかではなくて、好みの問題だと思うんですよね。
もちろんSDGsとか言い出すと、ごみは減らさないといけないし、不要な買い物は極力減らしたほうがいいけどね。
健全な欲をもちたい
物欲の話をしてきたので、ちょっと話はそれるのですが。物欲だけじゃなくて、健全な欲を持ち合わせていたいよねってよく考えています。
そもそも社会は「もっとこうだったらいいのに」という健全な欲があって発展してきたんだよね?たぶん(めんどくさいね、すみません)。
個人の幸福だって一緒で、きっと「もっと○○ができるようになりたい」「○○がほしい」「○○のように生きていきたい」とかそういった欲からしか、自分らしい幸福は手に入らないと思う。
欲しいと思わない限り、手に入らない。だから、やりたいこと・ほしいものがあったら発信しようと言われるのだろうと思うし。
欲にまみれる・のまれるのは怖い。それで散財するのは避けたい。
でも、やりたいこと、ほしいもの、すきなものが見つからない人生はさみしいよね。
やりたいこと100個書き出してみる
やりたいことっていうのは「天職」みたいな話ではないです。
1ヵ月仕事しないでいいよ、お金は好きなだけあげるよ、っていわれたら何したいか。考えたときにちゃんと「これがやりたい!」って出てくる、みたいなこと。
やりたいこと100、とかでどんどん書き出せること。
わたしはいまやりたいこと100個書き出してと言われても50個ぐらいしか書けないと思うんだけど(うそ、50個も書けないかもしれない)。
100個書けることがいいのではなくて、何個ぐらいかける自分なのか知っていることに意味があると思うので、書いてみてもらえたらいいなと思います。
全然かけなかったら、たぶん自分の欲に蓋をしているかもしれないよね。
ほんとうにこれはやりたいことなのか?とか、でも現実的に…とか。いろんなことが頭をよぎって書けないのめちゃくちゃわかるのだけれど、そういうの一回取っ払って素直にやりたいことが書けるといいよねーといつも思う。
やりたいって「ディズニーランドいきたい!」とかでもいいし、「健康でいたい」とかでもいいし、「大切な人を大切にして過ごす」とかでもいいのだよね。
100個書けなくても(何度も言うけど、わたしは書けない)、20個でも書いてみて、上位1~3個をまじで追い求めてみたらいいと思う。それが叶ったら、また次の上位1~3個を追い求めていく。
そしたら、幸福度は必ず上がっていく、気がしません?どうでしょうかね。
たぶん叶えていく過程でもっとやりたいことが出てくると思うし。行動してみたら本当に欲しいものじゃなかった、やりたいことじゃなかったということがわかるかもしれないし。
健全な欲をうまく使って、幸福度高めたいよね。と、完全に自分に言い聞かせています(笑)。