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趣味がないというコンプレックスから自分を開放する

わたしは自分の話をするのが苦手と、ことあるごとにnoteに書いている。その大きな理由のひとつが「趣味がない」ことにあると思うのです。

就職活動のとき履歴書に「趣味」の欄があって、「ないわ!」って突っ込みながらしぶしぶ「読書」と書いた記憶がある(読書はするほうではある)。そのときから、明確に「趣味」がないことがコンプレックスになったのです。

32歳。ここで、趣味なしコンプレックスから自分を開放してあげようと思います。

30年間、趣味がない

詳しくは覚えていないけれど、おそらく中学生のころにはすでに、わたしは自分のことを話すのが苦手でした。自己紹介をしなくてはいけない場面が、ほんとうに苦痛でした。

語れることなどないのだ。趣味は?と聞かれても、ないのだ。好きなものは?と聞かれても答えたくなかったものある、相手の反応が過剰に気になっていた。

思い返せば、スヌーピーやシルバニアファミリーは死ぬほど好きでコレクションしてたし、関ジャニ∞やコブクロは15年以上追いかけていて子どもが生まれるまでは毎年ライブにも行っていた。

白い服が大好きで気づいたらクローゼットが真っ白になったり、好きなブランドのハンカチを急に50枚ぐらい買い集めたりしたこともある。

でも、わたしは「自分には趣味がない」と思っていたんです。

「趣味」というのは、読書とか映画鑑賞とかキャンプとか、なんかそういやつだと思っていた(語彙がない)。習慣的にやっていることだとも思っていた気がする。

とにかく自分がやっていることを「趣味」と認定していなかった。趣味は長く続いているもので、「いまハマっているものではない」とも思っていたのだろうと思う。一過性のものではいけないのだと。

清く手放すクセ

趣味は一過性のものではないと思っていたので、わたしには趣味がなかった。

わたしは瞬間的に「これが好き!」と思ってから、それを集めるまでの時間がとても短い(気がしている)。でも、その反面、集めたものを手放すのも早い(気がしている)。

一時期「収集」が趣味なのかも?と思ったこともあったけれど、収集が好きなひとは一般的にはそれらを手放せないものだ(という思い込みすらある)。

わたしはすぐに手放す。それも「手放すのが心苦しい」というわけでもない。余裕で手放す。

あんなに好きで集めたスヌーピーもシルバニアファミリーもいまはほぼ手元には残っていない。本も好きで月に5~10冊買うけれど、本棚には常備50冊ほどしか残っていない。

関ジャニ∞もコブクロもあんなに好きで結局15年以上好きだったけれど、子どもが生まれたらすっかり追いかけなくなった。

子どもがいるからライブに行けない、みたいなことではない。もうライブに行きたいとも特に思っていないし、テレビも見ないし、音楽すら聞かなくなった。

集めるときは全力で集めて、それでもあまり持っていることに執着せずにすぐに手放せてしまう。長く好きだったこともあっさり手放してしまう。

これでは一生「趣味」といえるものに出会えない、絶望。

趣味、なくてもいいか

まあ、でも趣味はなくてもいいかって思い出している。

これを書いていてたくさんの思い込みがあると気が付けたし。好きなものはいつもあるし。それでいいんじゃないかなって。

あと、趣味はなんですか?と聞かれたらやっぱり「収集」なのだろうとは思いました。

集めることは好き。これは絶対にそう。集めるものは時が流れて変わるけれど、なにかを集めていない時期というのは、わたしの人生にはない。

でも、そのあとに必ず手放す。きっかけはいろいろだけれど必ずなにかのタイミングで手放すのだ。

とにかく集めて、必要なものだけ残して手放す。物心ついた時からやっているわたしの変わらない習慣。

わたしの趣味はしいて言えば「収集」である。でも、「気が済むまで収集して、自分なりの落としどころを見つけて、整理して、手放す」までがいつでもセット。

だから「趣味」というほどのものでもない。それでいいのだと思うことにする。

手放してた代わりになにかを取り入れる。そうやって自分の心を満たしているのだろうとも思うよね。

※こちらのnoteはセフルコーチング的に書いたものです。どのように書いたかの詳細は下記のnoteをご覧ください。

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きよみや みずほ(mizuho)
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