【映画レビュー】『PERFECT DAYS』:平山は幸せなのだろうか…
同じことが繰り返される日常。微笑みたくなることも少しあり、たまに心がざわつく出来事もある。それでも変わらず静かな毎日が続いていく……
画面に映し出されるのは、慎ましく、ささやかで、真面目な人生。そこまでは、この作品を見たほとんどの人が共有できるだろう。それほど、この作品の映像のメッセージ性は明確だ。
では、そんな人生をどう思うか? 良い生き方なのか、つまらない生き方なのか? 幸せなのか、不幸なのか? 満足なのか、寂しいのか?
そんな人生論的なことを問う映画ではないとおっしゃる方もいるかもしれない。ただただ映し出される姿とその世界を受け止めればいいのだと。
でも私は、映画を観終わった後、彼は幸せなのだろうかと考えてしまった。この作品は、私にその問いを投げかけてきた。もちろん良い・悪いという正解があるとは思っていない。一人ひとり受け止め方は違うだろう。
これから、私がどう受け止めたのかを書こうと思う。できるなら、ほかの人がどう思ったのかも聞いてみたい。
ささやかな出来事に幸せを見出す
寝る前に本を読み、電気を消して一人で眠りにつく瞬間。毎朝、同じ手順で仕事の準備をこなす。通勤の車中でお気に入りの音楽をかける。昼休みは同じ公園でパンを食べ、木の芽を見つけると持って帰って育てる。休みの日は、同じ時間にコインランドリーに行き、古本屋に行き、そして、少し恋心を抱いているママがいる飲み屋に行く。
少し楽しいことがあれば、宝物のようにそっと胸にしまう。動揺させられることもあるが、それも自分の胸のうちにとどめ、感情に流されてしまうことはない。
主人公平山のそんな生活について、説明はいらないだろう。見ればわかる。それくらい丁寧に鮮明に描き出されている。
日々のルーチンワークと、ときどき起こるほんのささやかな出来事……。平山は、そこに幸せを見出しながら生きているように見える。
でも、絶望や諦念のようにも思える。どうなのだろう?
彼は幸せなのか? 私は考えてしまう。
やっぱり平山の人生は寂しいと思う
私の結論を言ってしまうと、平山の人生は、やはり寂しいと思う。
若いときなら、平山のような人生は理想的だったかもしれない。人間はしょせん一人なのだから、自分の楽しみを見つけて、誰にも頼らずに暮らしていけたらいい。そう思えたと思う。
しかし、それは自分は何でもやろうと思えばできるという傲慢な余裕から来ていたのかもしれない。
人生も終盤に差し掛かった今では、そうは思えない。平山のような毎日を過ごし、そのままいつか死んでしまうと考えると、少し怖くなる。
私はやはり人と関わって生きていきたい。
うれしい出来事があれば、それを誰かと共有したい。話したり、聞いたりしたい。自分の胸の中に宝物のようにそっと持っておくだけでは、寂しい。
心がざわつかされるようなことがあれば、それを腹に抱えて生きていくのはつらい。逃げずになんとかして解決したい。
平山は、喜びも苦しみも、そっと自然に抑えているように見えるが、実はかなり無理をしているのではと思う。恋する気持ちも表に出すことはなく、胸に押しとどめるが、本当は苦しいはずだ。
でも、動揺を抑えなければ、日常が壊れてしまう。感情の揺れに流されてしまったら、静かな生活が崩壊してしまう。だから、当たり前のように抑え込む。自らの意思でそうしている。でもそれが本当に心から望んでいることなのかどうかは誰にもわからない。そうしなければ生き続けていけない必然の苦しみであるようにも思えてしまう。
もちろん、生きていく術なのだから決して否定などできない。しかし、それを素敵な生き方というように美化することも、私にはできなかった。
涙の意味は?
平山が微笑みながら泣いているシーンがあった。本当に身に染みる。
私も、1人で歩いていたり、自転車に乗っていたりすると、涙があふれていることがよくある。悲しいという直接的な感情ではなく、なぜかわからないけど胸が詰まって、涙が出てくる。
平山の涙は何なのか? そこには人生に対するあきらめのようなものが混ざっている気がしてしまう。いい悪いではない。彼はそういう生き方をしているのである。それでも何かしら心の奥底に満たされないものがあるから、涙が出てくるのではないだろうか。自分のことを考えると、そう思える。
人は人との関わりに喜び苦しむもの
私は、人間は、他人との関わりの中にしか幸せを見いだせない生き物であるような気がする。でも幸せは簡単には見つからない。人と関わることは、苦しいことや傷つくことも多く、ときには命まで奪われる。そんなに辛いなら人と関わらなければいいじゃないかと思うかもしれないが、それができないのが人間なのだと思う。求めてしまうのだ。
いやそんなことはないよ、趣味や仕事や、平山のように日々の生活に幸せを見出している人はたくさんいるじゃないかと、言われるかもしれない。
確かにそのとおりである。でも、どこか無理に自分を押さえつけているような気もする。傷つくのを恐れて、自分が壊されてしまうことを防ぐために、ささやかな出来事に幸せを見出そうとしているような気がする。
平山は私自身だから
この映画を見て、こんなことを論じるのは何か違う気もする。でも考えざるをえないのだ。それほど、この映画を観て、私は身につまされた。
なぜなら平山は、まさに私であるように思えたから。平山の生き方は、今の自分の暮らしと重なっていて、平山の行動はいま私自身が選んでいる行動であるように、目の前に切実に迫ってきたから。
だから、平山は幸せなのだろうかということを考えずにはいられなかった。そして、おそらく幸せではないと思った。でも、そうしなければ生きていけないことも実感としてわかる。
自己完結して「パーフェクト」であるように見せるしか、この世の中を生き抜くことはできないのかもしれない。
あまりうまく思いをまとめることができませんでしたが、私と同じように感じた方はいらっしゃるでしょうか。全然違う受け止め方をしている人もいると思います。
平山の人生をどう思ったか、ぜひいろんな人の話を聞いてみたいなと思いました。