【映画レビュー】『リリィ・シュシュのすべて』:一筋の希望の光さえ見えない陰鬱な絶望の世界
岩井俊二監督の作品では「ラブレター」がとても好きだ。悲しい話ではあるけれど、見た後に心がじわーっと温かくなる。
それに対して、この映画はどこまでも陰鬱にさせられる。まさに対極にある。
中学校での「いじめ」を題材としているが、そんな一言ではまったく片づけられない。人間の陰の部分が画面を支配する。
その暗闇の中には美しいものも存在してはいる。しかし、希望の光は最初から最後まで一筋さえも見えなかった。
こんなにも正反対の映画を、一人の監督が生み出し、しかもそれが見事に岩井ワールドになっていることは驚きである…
悲惨で救いようのない世界
最初に登場するいじめっこ。目つきがとても悪くて、めちゃくちゃ嫌な奴だ。悪いだけでなく、卑怯で、自分本位で、むかむかしてきた。映画なのに、心底憎くなるほどリアルなキャラクターだった。
こいつらがうごめいている映画なのだなと、腹が立ちながらも、一気に引き込まれた。
しかし、そんな生易しいものではなかった。
途中からは、彼らも支配され、怯えて生きている存在であることがわかった。
「いじめ―いじめられる」構造は、目まぐるしく変わり、誰が悪なのか、何が悪なのかというような理性的な思考は吹っ飛んでしまう。
そこにはもう、悲惨で救いようのない世界が、動かしようもなく立ちはだかっていた。 世界は死んでいると感じるた…
希望のない世界で交わされる、希望を求める言葉
そんな世界に割り込むように、チャット画面のような文字がスクリーンに飛び交う。
リリィシュシュという架空のカリスマ歌手にすべての救いを求める人々の言葉だ。ファン同士で交わされる、リリィについて語り合うメッセージが、頻繁に映し出されるのだ。
深い意味がありそうなものから、たわいもない話まで、玉石混交に流れ続ける文字だけのやりとり。それと、救いのない人間たちがのたうち回る映像とが、見事に絡み合う。
希望のない世界で交わされる、希望を求める言葉。
2つがどんな風に絡み合っているのか、うまく説明できないのだが、それが計算されて作られているものだとしたら、本当にすごい。見事な世界構築である。
突然の死をきっかけに
そうして、映画はひたすら陰鬱さを増しながら進んでいく。そのなかで3人の死が描かれる。
まずは、楽しかった時代に仲間たちと行った沖縄旅行で出会った、大沢たかお演じる旅人の死。
高校生たちの旅行に、なぜか混じりこんでくるバックパッカー。ちょっと軽い感じで、もしかして何か魂胆があるのかとも思わせる胡散臭さ。
その彼が、あっさり事故で死んでしまう。あまりにあっけなかった。
このエピソードは何だったのか。どういう意味を持つのかわからないが、それを機に、楽しかった中学生時代は終わりをつげ、まっしぐらに暗い方向に進んでいく。
彼の死はその転換点になった。なぜだかは説明できない。でもなんとなく感覚としてはわかる。
どうしてこのシーンを入れようと思ったのか、意図的に狙ったものなのか。着想に脱帽するしかない。
美しささえ、陰鬱になる
もう一つは、蒼井優演じる同級生の死。
彼女は、いじめの支配者に弱みを握られ、売春を強要され続ける。そして、未来が見えなくなって死を選ぶ。
死の直前、彼女は美しかった。凧を飛ばす人たちに紛れて、空を飛ぶ凧を楽しそうに操っていた。喜びの笑顔を見せていた。とても美しいシーンだった。
そして、そのまま空を飛ぶことに惹かれて、鉄塔から飛び降りてしまう。
美しさがまったくやさしさに結びつかない。むしろ、むごたらしさを増幅する。
世界はますます陰鬱になった。
世界丸ごとが絶望である
そしてラストにある死。
これについては物語の結末なので、ここでは触れないでおく。とにかく、救われない陰鬱な死だった。
そんなふうに、映画はずっとずっと救いがないままだ。かすかな光すら射さない。ただ絶望の中を生きる。そしてその絶望の生の闇をさらに深くするかのように、死が挿入される。
何が悪だとか、誰が悪いとか、そういう概念では語れない。世界が丸ごと絶望であり、哀しみであった。
最初からエンドロールまでひとときも目を離せなかった。
そして、広い草原のようなところで、ヘッドホンで音楽を聴いている少年たちの映像が、ただ頭に残像として残った。
結局リリィとはどんな人なのか、どんな歌を歌うのかは、映画の中では描かれません。というか描けません。描いてしまったら陳腐になってしまいますから。
あー、それにしても、とてつもなく凄い映画です。