ため息俳句61 三月尽
リタイヤして以来、年度という時間感覚が薄れしまった。というより、「時間感覚」に狂いを生じたかのように、まさしく光陰矢の如くであって、逝く川の流れが年々速まる感じがしている。
三月で年度が終わり、4月新年度開始、子供の頃は春休みを挟んで、世界が一変するような不安を感じていたような気がする。そういう意味では、この時期桜が咲いて、さっと散って行く様は、舞台の転換のようで悪くは無い気がする。
近辺のソメイヨシノは、花びらを散らせて、一旦はやせ細ってゆくのだが、瞬く間に若葉を吹きだして、葉桜へと変身する。樹木にとって花期は一時のことである。ましてソメイヨシノは、実をつけると云っても殆ど結実しないという、繁殖は接ぎ木でおこなうので、すべてクローンであるという。とすれば、ソメイヨシノの花は人に愛でられるだけに改良されてきたということか。それでも、この桜は、同じ遺伝子をもつソメイヨシノ同士の交配はで出来ないが、ソメイヨシノと他品種の間での交配は可能であるという。そうでなくては、かわいそうだ。子々孫々まで、一斉に花咲き、一斉に散って行くなんて、気持ちが悪いではないか。どっかの自称「美しい国」の古めかしく愚かな何やらのようで、息苦しくなる。
三月尽回転寿司でパフェを食う
やや冷た三月晦日の風である
明日四月弁当箱は二杯分
散歩の途中に、腰ほどの高さの石の不動尊がおいでだ。時折、ポケット探って、小銭を供える。手を合わせて、それだけだが、ちょっと気持ちが緩む気がする。今朝ほども。