
ため息俳句 団栗を拾う
何処で拾うた団栗ふたつ転げ出ず 空茶
昨日訪れた丸木美術館の庭に落ちていたどんぐりである。
今朝、ポケットの中にあるのに気付いた。
拾ったことをすっかり忘れていたのだった。
これでは、洟垂れ小僧と変わりないではないかと、自分を笑ったのだ。
そうとはいえ、どんぐりが足元に転がるのを見かけると、つい拾ってしまう、そういう人は案外多いのではないか。なんだか懐かしさを誘う木の実である。
団栗の寝ん寝んころりころりかな 一茶
この一茶の句でないが、自分の中の幼心をどんぐりには擽られるのだ。
団栗や屋根をころげて手水鉢 正岡子規
大正時代に作られた誰もが口ずさむ唱歌である「どんぐりころころ」は、この子規の句を元にして作ったのかとつい思いたくなる。唱歌は、「お池にはまって さあ大変」であるが、子規の句の方は、手水鉢にポシャンである。いや、ポシャンというのは自分の付けたしで、本当の音はわからない。この句はこの句で、芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」に通じている気もする。
そこに行くと、唱歌はさすがに子どもたちが歌うものだから、「ドンブリコ」と音をきちんと書いている。でも、どんぐりのサイズを考えると、ドンブリコというのは、ちょっと大げさな感じがしないでもない。
夢殿へ寄ろう二、三の団栗と 坪内稔典
ところが、稔典先生の句になると、拾ったどんぐりを手にしたところ、夢殿に寄ろうと思い立つのである。
法隆寺の夢殿である。
こうなると、なんだろうか、思わずニヤニヤしてしまう。
なんだか、そう遠くない門前の茶店で、子規が柿を食っているような気がしないでもない。
例によっての与太話だ。
それにしても、今日はこの秋一番の肌寒さである。
今思い出したのだが、寺田寅彦に「どんぐり」という小品がある。心をうつ亡き妻の回想である。青空文庫で読める。
見回せば団栗ひらい其処彼処 空茶