ため息俳句 炬燵暮らし
昨晩、こんなのをここにあげた。
寒月や久しく無きは恋心
軽薄な俳句まがいである。
自分で自分の句に何事かを述べるのは気恥ずかしくてとうていできない。
ので、これはこれとして、それはそれだから、今朝になって、「恋心」なんてという歳かと、己を己で嗤った。
午前中は、一時間ほどだが畑に出て、草取りをした。
午後は、妻が外出して、またも炬燵暮らし。
そこから、あのヒヨドリが、餌を独占するつもりか、林檎片の傍らから立ち去ろうとしない様子が見える。
そうしているうちに、ひよひよと音が聞こえているのに気づいた。どうやら山茶花のあたりから聞こえているようだ。その方向を注意してみていると、声の調子も微妙に変わっているようだった。どうやらメジロ君、ヒヨドリが立ち去ってくれるのを待っているのだとあたりをつけた。ひとつメジロ君に加勢しようかと、炬燵から立って、ガラス戸の側によると、ヒヨドリは人の気配にさっと逃げて行った、
炬燵に戻って、見ていると、一向にメジロ君はやってこない。どうやら、見込み違いであったらしいと、気が抜けた。そうしていた時、ヒヨドリが舞い戻ってきた。いや、別のヒヨドリである。前のより翼の色が濃いグレーである。ヒヨドリだって十人十色、個体差があるようであった。
何とも、長閑すぎる。長閑すぎて、自己嫌悪に駆られそうだ。
先ほどから、大昔に買い揃えた筑摩版「現代短歌全集」の14巻を拾い読みしている。暇つぶしだ。
この頃になって、忍耐強く本を読むということができなくなった。それでも、つい手に取ってしまうのだが、そうなると、拾い読みとなる。たまたま開いたページに、惹かれる一行を発見すると、その前後をさらっと読んでみる。いいかげんなものだ。
そういう点、短歌や俳句はまったく都合よい。一行が、独立している。ゆえに、ホイホイと目を通せる。ポイポイではない。時々は、一行をじっと睨んだりも。
この昼下がり、この14巻で、出会ったいくつかの作品、というより、以前から知っていたのだが、・・・・。
ガーゼの上に腎結石乾きゆかんとす悲シミノタメ二化石セリ 原田禹雄
童貞のするどき指に房もげば葡萄のみどりしたたるばかり 春日井健
詩と死ひとしきわが領域に夏さりて木曜の森火曜の竈 塚本邦雄
掌の中に父がマッチを点けるときわれの生誕うたがわざりしや 岸上大作
まどかなる林檎さげゆく重たさにひかれて昼の心なぎゐつ 安永蕗子
いいのかなあ、こんな日々で。