ため息俳句 暮のルーティン
冬至である。
冬至が来ると、いよいよ今年も押し詰まったという気がする。
そうなると、年の終わりの我が家の習慣が意識される。
詳しい日程は、どうでも、おおよそこんな風である。
とりあえず、今夜は、かぼちゃの煮つけを食べる。
明日以降にはこういうことがある。
最大のイベントは、妻の妹夫婦と共同で餅つき。午後1時ころに終わって、昼食。おでんと煮ぼうと、それに搗き立てのからみ餅。それらは、餅をつく合間に、自分が調理する。
今年は息子のところの孫が見物にくる、邪魔!だと云いたいが、言えない。
夕刻、兄の家へ餅を届ける。お返しは、ミカン。物々交換である。
次は、障子の張替え。
そうして、大掃除。
大みそかには、娘一家がやってくる。
一緒に紅白歌合戦を観る。
年越しそば。
付帯的には沢庵と白菜の漬け込みを、明日以降機会を見て済ますこと。
そうして、一番厄介な自室の清掃。
それにクリスマスもある。孫へのプレゼントは、アマゾンへ発注済み。老人二人で、ショートケーキかモンブランを食べる。
おせち作りは、もうしばらく前に止めた。大体、子や孫は、そんなもの食べない。そこで、縁起物の定番おせちセットは仏様へのお供え程度に。
そんなことをこの一週間ほど終えるのだが、本当に疲れるのは、大みそかから始まるお正月の子と孫への「おもてなし」である。別に自分はそんな必要はないと口を酸っぱくしていうのだが、妻は全力で「おもてなし」をしたいのである。おばあちゃん大好きと孫に甘ったられると、脳内に快楽物質ドーパミンがあふれてくるらしい。困ったものだ。病と云って過言ではない!
わざわざ「暮のルーティン」なんぞと題名をつけたが、我が家が実に平凡な家庭であるということの証のようなものだ。我が家の習慣は、自分と妻のそれぞれの実家のそれを足して二で割ったもののように思う。
とはいえ、妻の実家などでは、正月用のお飾りのしめ縄なんて手作りしていた。そういうことを思えば、足して二で割ったとはいえ、切り捨てたこともたくさんある。
変わらないのは、子や孫たちの喜ぶ顔がまずは楽しみ、そこでじたばたと年末年始を過ごすジジババの気持ちなの知れない。