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救世主
もしもこの世に救世主が現れたなら、その人はこう言うだろう。
「私が奇跡を起こしているのではない。
それを信じるあなた方自身の意識が起こしているのだ。
私はあなた方が奇跡を信じるための偶像に過ぎない。」
すると人々は問うだろう。
「奇跡を起こしに来たのでないなら、なぜあなたはここに現れたのですか。」
……
私はあなた方自身が奇跡を起こしているということを伝えに来たのです。
あなた方の周囲では奇跡が起きているが、それをあなた方は自身が起こしたとは信じずに
「おお、奇跡だ!神よ!」
と神を崇める。
その存在がなければ、理解できない奇跡というその現象を見なかったことにし、気のせい、とどこかに追いやってしまうのです。
私の存在があることでその現象を全て私の仕業と思い込み、信じ、崇めるが、本当はあなた方のその信じる意識が起こしていること。
誰かを崇めたいのなら、その奇跡を起こした自分自身を崇めるべきなのです。
信仰心は生物に備わった生理現象。自然の摂理。
あなた方が今見る奇跡と5000年前の人類が見る奇跡は同じだとお考えか?
今あなた方が当たり前のように使うコンピューターテクノロジーは5000年前の人類にとっては奇跡だったのではないか?
あなた方は5000年前の人類にとっての奇跡を今現に起こしているではないか。
では、今あなた方が見る奇跡は5000年前の人類にとっては奇跡だったのか…?
証拠はなくとも、古い時代の人類は直感的であり、あなた方が今、第六感と呼ぶ感覚が優れていたであろうと誰もが思っている。
つまり、本来人類に備わった能力を日常に見なくなり、自らが起こしていることを知らずに奇跡だ、神の技だ、と思い込んでいるに過ぎないのだ。
そしてそれは5000年前の人類にとっては奇跡でもなんでもない、日常だったのだ。
救世主とは、真実を伝える人。
あなた方自身が起こしたその奇跡を、あなた方自身を信じなさい。
私が語ることをそんなはずはないと否定するだろう。
その否定が過度に至った結果が救世主の悲劇的な死なのですよ。
救世主が悲劇的な死を遂げるのは、人々がその真実を受け入れたくないがため。
あなた方には奇跡と思える現象を起こす能力が備わっている。
努力など、必要のないこと。
ただ、この世への概念を変えるだけで全ては思いのまま、豊かな人生へと変えることができるのだよ。
あなた方が生きているこの現実は、5000年前の人類にとっての奇跡の世界。
ただ、思えば良い。
いかなる未来に生きたいのか。
未来の人類が体験する世界がいかなるものであって欲しいのか…。
想像したその時から人類の未来のベクトルはそこへと向かう。
今この瞬間から世界が変わる。
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![ミシェル・フナコスキー](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/104411228/profile_982659fa419889ded93d9b1beca542b2.png?width=600&crop=1:1,smart)