【読書】近藤富枝『花蔭の人 矢田津世子の生涯』を読んだ
坂口安吾の小説やエッセイを読んでいて気になった作家の一人に矢田津世子がいる。
安吾の自伝的小説「二十七歳」「三十歳」で未練がましく語られる津世子との恋。そして彼女への想いを断ち切るために長い時間をかけてなんとか書き上げたものの失敗作と呼ばれる作品になってしまった長編小説「吹雪物語」、小説「女体」の登場人物に津世子を投影しようとして悩む日々を含む創作日記「戯作者文学論」など、安吾の中期から後期の小説に津世子が与えた影響はかなり大きいと思われる。
ただ私は安吾の書いた文章からしか津世子を知らず、読んでいるとなんとなく安吾にとって津世子との恋を重大事として創作の種にしようとしたのではないかという気もしてくる。
安吾と深い交友のあった檀一雄は「坂口安吾論」の中で「ひょっとしたら、矢田津世子の事件も、無意識のうちに設計した彼の文芸上の一構成ではなかったか」と書いている。織田作之助が「可能性の文学」で太宰治と安吾との鼎談の夜のエピソードを紹介して「坂口安吾はかくの如き嘘つきである」と書いているように、小説である以上嘘が混じっているのは当然で、特に私生活に題材を求めることが多かった当時の作家は生活の中で体験したことについて小説になるかどうかという判断を当然しただろうし、小説になりそうな体験を選んでさえいたのではないかと思う。自伝的小説といっても小説であることには変わりない。つまり書かれていることがそのまま実際に起こったことだとは限らないということだ。
安吾と津世子の恋愛が実際にあったのかということは一旦置いておいて、津世子の作品を読んでみたいと思った私は青空文庫で小説「茶粥の記」を読んでみた。主人公は夫を亡くし、残された姑と共に東京から郷里の秋田に帰ることにする。姑は温泉に入りたいと言い、長野県の霊泉寺温泉に寄ることにした。道中、亡くなった夫のことが思い出される。役所に勤めていた夫は食通として知られ、昼食どきなど同僚を相手にあれが美味い、これが美味いと食べ物の知識を披露する。時には雑誌に寄稿することもあった。しかし、それらの夫の知識は全て雑誌や話に聞いて知ったものに想像を加えたもので、実際に食べたことは一度も無い。むしろ雑誌社に招かれて中華料理などをご馳走になるとお腹を壊してしまうような体質で、妻が作る茶粥を喜んで食べ、「役所が馘になったらお前さんにお粥屋をはじめてもらうよ」と冗談を言うような人だった。夫の人柄の明るさと、それを喪った悲しみや憤り、姑との今後の生活への不安が対照的に書かれていて、しみじみとした良い小説だった。
この小説に出てくる霊泉寺温泉の旅館には泊まったことがあった。津世子が活躍していた昭和初期から時間が止まったような旅館であり温泉地で、「茶粥の記」での描写は自分の印象とも合っていた。そうなるとこの温泉でまた津世子の小説を読んでみたいと思い、古本で小澤書店刊行の『矢田津世子全集』を買い、前回と同じ旅館に宿泊して津世子の初めての創作集『神楽坂』に収録された小説を読んでいった。いずれも妾を題材にしていて、彼らの生活や感情が湿っぽくならず淡々と書かれているところにユーモアと知性を感じた。
そのように津世子の小説に親しむようになり、そうするとどのような人物でどのような生涯を送ったのかということが気になるようになる。私は近代文学が好きなのだが、作品が好きであるのと同じくらい作家や作家のエピソードが好きなのだ。小説に書かれたエピソードについて、本人や当事者のエッセイではどのように書かれているのか、どこに小説的な虚構があるのか、また小説には書かれていない部分が書かれていないか。それを知ることで小説の味わいも深くなるし、同時代の他の作家にも興味が生まれる。本も集めたくなる。そうして昭和初期から戦後くらいの作家の本ばかり買って読むようになっていった。
そういうわけで津世子についてもっと知りたいと思った私は、国立国会図書館デジタルコレクションで検索をして津世子の小説やエッセイ、それらについて別の作家が書いた文章が掲載されている雑誌を読んでいった。その中に、今回読んだ近藤富枝『花蔭の人 矢田津世子の生涯』の書評を見つけた。評伝であれば津世子の人生について網羅的に知ることができるだろうと思い、早速古本で購入した。
そうして読み始めた本書だが、津世子という人の生涯に最も大きな影響を与えた人物がまずはじめに登場する。当時まだ七十五歳でご存命だった津世子の兄、不二郎だ。彼が津世子を文学の道に導き、絶えず支援し激励し、また監視していた。それは兄弟愛というだけは足りない、まさに執着とも言えるほどのものだと思う。
不二郎は津世子に関するものは残らずそのまま保管してあると言いながら、それを見せてくれるようなそぶりはない。それくらい大切にしているのだ。しかし、それが津世子が再評価されるための障害になっているとも言えるかもしれない。例えば宮沢賢治の弟である清六は宮沢賢治全集の編集にあたった草野心平に対して惜しみなく資料を提供しただろう。全集が刊行されなければ宮沢賢治はマイナーな地方作家として忘れ去られてしまったかもしれない。
しかしそんな不二郎も著者の質問には好意的になんでも答えてくれたようだ。それはとても貴重な証言だっただろうし、また事実関係や関係者の心情については不二郎氏のフィルターを通したものだと思うべきでもあるだろう。
本書では不二郎や同時代の女性作家たちの証言、津世子の作品などから津世子の人生をなぞっていく。秋田での少女時代から、名古屋に住みながら作家を志し『女人芸術』に作品を発表していた初期。『文学時代』の懸賞小説に入賞して上京してからの新進作家時代。この新進作家の時期に坂口安吾と知り合い親密になるものの関係を進めることができないまま、津世子は共産党へのカンパの疑いで特高警察に捕えられ、そこで短い間の留置ながら体調を崩してしまう。
この発病が結果的に津世子の命をも奪うことになるのだが、その頃から津世子の作品は劇的に変わる。それまではプロレタリア文学が流行ればプロレタリア文学を書き、求められればコントを書きというように作家としての芯が無いように見えた津世子だったが、姉たちの夫が囲っていた妾の記憶から、妾たちの風俗や心情を題材にして小説を書くようになっていった。それらの作品は文壇で高く評価され、初めての創作集『神楽坂』に結実する。
文壇での評価が上がっていくのとは裏腹に、津世子の病状は悪化していく。不二郎や、盟友と言える作家大谷藤子、主催した文芸同人誌『日暦』『人民文庫』に取り上げるなど津世子を評価していた先輩作家武田麟太郎などの支援も虚しく、津世子は三十七歳の若さで生涯を終える。武田麟太郎も参加した文芸同人誌『八雲』の創刊号に発表するはずだった最後の作品「水かがみ」は病床で胸に氷を当てながら書かれたものの、川端康成に「矢田津世子のものとして発表するのは、名を傷つけるようなものだから、もう一度書き直してはどうか」と言われ採用されなかったという。
これは作家としての津世子の生涯なのだが、もちろん安吾との関係が進まなかった原因の一つであり、文壇での評判も落とすことになってしまった時事通信社の記者和田日出吉との不倫についても書かれている。特に発病してからの津世子は小説を書くことだけに生涯を捧げたような頑なさがあるが、そのような津世子と、妻子ある者や病床を見舞う若者との恋を求める津世子の両面があるのだ。その振り幅が冷静な筆致で正妻ではない女性たちの細やかな心情を書かせたのかもしれない。
矢田津世子の全集はまだ読み切っていないが、ゆっくりと読み進めていきたい。大谷藤子の作品も気になるところだ。