【読書】町田康訳『宇治拾遺物語』を読んだ
十一世紀、平安時代に成立した「宇治大納言物語」は大納言、源隆国が聞き集めた話を集めた全十四巻の説話集で、そのアウトテイク集のようなものとして作られたと思われるのが「宇治拾遺物語」ということらしい。
本書はその宇治拾遺物語を町田康が現代語訳したもので、元々は二〇二〇年三月二十七日に発行された池澤夏樹個人編集『日本文学全集』(全三十巻)の第一巻『日本霊異記/今昔物語/宇治拾遺物語/発心集』の中で町田が担当した「宇治拾遺物語」を抜き出して河出文庫から発行したものだ。
『日本文学全集』が発行された当時「宇治拾遺物語」中の「奇怪な鬼に瘤を除去される」、いわゆる「瘤取り爺さん」がWeb河出で試し読みとして公開された。またライムスター宇多丸がパーソナリティーを務めるラジオ番組「アフター6ジャンクション」に町田康がゲスト出演し自らこれを朗読した。
私は当時この「奇怪な鬼に瘤を除去される」を読み、また町田康の朗読も聴いた。抜群におもしろかった。古典の雰囲気を残す堅実な語り口の節々に現代的なフランクなくすぐりが入る。特に鬼たちのパリピ然としたノリと雰囲気が、軽さと距離の近さと威圧と話が通じ無さそうなところが最高だった。それを淡々と関西訛りを交えて朗読する町田康もやっぱり最高だった。
そういうわけで、「宇治拾遺物語」が単独で文庫本として発行されると聞いた私は、これは他の話もおもしろいに違いないと思って即座に購入し、喫茶店や酒場に行く際に持っていっては少しずつ読み進めた。
収録されている話の中には長いものもあれば短いものもあり、物語としてしっかりしているものもあれば、小噺や落とし噺のようにちょっとしたエピソードとオチという感じのものもある。極端に短いものや何を言いたいのかよくわからないものもある。いろいろなタイプの話を満遍なく拾ったんだろうと思われる。話の終りには原典の「宇治拾遺物語」の中の何話目かも書かれていて、最後に収められている「盗跖と孔子の対話」には第一九七話とあるので、膨大な話の中から三十三話を選んだことがわかる。
いずれの話も、欲かきでおっちょこちょいで愛らしい人間らしい人間たちのエピソードで呆れたり笑ったりしながら楽しく読んだ。これが古典文学の良いところだと思うのだが、今も昔も人間が考えることややっていることというのは大して変わらないんだなと思う。道徳が作られ、常識が作られ、ルールが増えていっても人間の根本はそんなに変わらない。変わらないからその時々でできるだけ人々が生きていきやすいように道徳が作られ、常識が作られ、ルールが作られていくわけだろう。それがわかるからどんなに愚かしい話でも馬鹿馬鹿しい話でもどこかで共感するところがあって笑ってしまうのだろうと思う。笑うことができるというのが重要で、それは何百年も進歩が無い我々人間という存在を許容することに繋がるのではないか。許容するところから出発してはじめて、もっとちゃんとしなきゃいけないなという意識も生まれるのだと私は思うのだ。
最後にこれは余談だが読んでいて思ったことがある。この『宇治拾遺物語』に収められている話は全てではないが題名でどんな話かが大体わかるものが多い。例えば「出雲寺の最高経営責任者がそれが転生した父親だと知りながら鯰を殺して食べた話」などはその説明的な長さも含めておもしろい。これってバナナマンが昔よく話していた「俺うんこしたいから笹塚で降りるわと言ったときにはもう漏れてた事件」という、タイトルで内容をほぼ言っているエピソードと同じだなと思った。あのエピソードも宇治大納言が聞けば「宇治大納言物語」か「宇治拾遺物語」に収録しただろうか。