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【読書】山城千佳惠子『檀一雄の従軍日記を読む』を読んだ

 檀一雄「リツ子・その愛」の冒頭は「檀さん、洛陽に行きませんか?」と問われるところから始まります。

 昭和十七年に律子夫人と結婚した檀は東京都板橋区下石神井に家を借りて生活を始めます。翌年には第一子太郎が産まれ、そのまた翌年の昭和十九年に報道班員として中国に渡ることになりました。

 まだまだ新婚であり、子供もようやく一歳になろうとするところ、更に太平洋戦争は激しさを増していく中で妻子を残して家を出るなんて普通であれば大変悩ましい話ですが、檀は「行きましょう」と即答します。

 檀はのちに山寺に住み充分な蔵書の無い環境で杜甫の詩を訳して糊口をしのいだこともあるほど唐詩の素養があるのです。そのような檀にとって、軍の命令とはいえ中国の各地を実際に歩くことができる機会に恵まれたという気持ちが強かったのでしょう。

 洛陽。行きたいと思った。なにを打棄ててでもよいと思った。東洋の文人にとって、またとない目出度い聖地に行脚出来る心地である。

檀一雄「リツ子・その愛」

 山城千佳惠子『檀一雄の従軍日記を読む』はこの報道班員として中国を巡った日々に書かれた日記です。日本に帰ってから報告書を提出する必要もあったでしょうし、師の佐藤春夫にも日記を書きなさいと言われて、スケッチも含めてまめに日記を書いています。

 ただ、中断をはさみながらもまめに日記を書いたのは三ヶ月程で、その後は日記を書くのをやめてしまいます。檀の任期は三ヶ月でその間は日記を書いていたのですが、更に任期を延長して深く戦闘地域を進んでいく際には書くことをやめたようです。その間にはスケッチブックにスケッチや詩の断片やメモが書かれているだけです。

 日記はのちに報告書と共に軍に提出をする必要があったからか作戦に関わりそうなところは書かれていません。また、のち昭和三十八年に発表されたエッセイ「敗戦の唄」には食糧不足に苦しむ部隊が現地住民を追い出して物資を略奪していたことや、捕虜となった女性兵士を慰安部隊に送るべきかという検討がなされているという噂が交わされていたことなどが書かれています。このように日本及び日本軍にとって都合が悪いこともこの日記には書くことができなかったのだと思われます。

 その代わりどのようなことが書かれているかというと、満月の夜の度に敵機の襲来を受けるような苛烈な環境とその合間に見せる兵隊たちの姿です。冗談を言い合ったり、食料を得るために魚を釣ったり、現地住民から食料を買ったり、中国の建国記念日である双十節に現地住民を招いてアコーディオンと流行歌の慰問会を催したり、そこにはのどかとも思えるような穏やかな時間が流れているようですが、常に死と隣り合わせの日々でもあります。

 この日記に書かれていることは「リツ子・その愛」に多く取り入れられていますが、慰問会で演奏されたアコーディオン(手風琴)と、優秀な航空兵で他の兵士からも慕われていた土屋大尉のエピソード、ピスト(空中勤務者の控え所)で太宰治『女生徒』を読んでいたことや敵地に不時着してしまい捜索隊に檀も加わって発見した大尉はすでに亡くなっていて、直前に歯の治療で注射を打った白い腕が異様に膨らんでいたという話は昭和二十四年に発表した小説「照る陽の庭」に取り入れられています。

 私はもともと「リツ子・その愛」「リツ子・その死」も「照る陽の庭」も好きな作品だったのでこれらのもととなった、報道班員として中国を巡った日々の記録を読むというだけでも大変興味深かったのですが、この日記を簡潔にまとめたような「敗戦の唄」というエッセイがあることはこれまで知りませんでした。新潮社版『檀一雄全集』の、詩とエッセイを収めた第八巻に収録されていることがわかり今回初めて読んでみましたが、前述したように報道班員の記録としては書くことができなかった行軍時の後ろめたい記憶などもはっきり書かれていてとても重要なエッセイだと思います。今回知ることができて良かったです。

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