からだが思い通りに動かない時にこそ、読んでほしい。
「畏怖」。
さいきん、この言葉に興味がある。
畏怖という言葉には、どんなイメージがあるだろうか。
畏怖という言葉を聞いてぱっと思い浮かぶのは、自然に対する畏怖だ。
大学生のとき、カンボジアのプレアヴィヒア遺跡に行ったことがある。タイとカンボジアの国境付近の海抜625mの断崖の頂上に位置するヒンドゥー教寺院であり、天空の寺院とも呼ばれているらしい。
プレアヴィヒア寺院からの壮大な景色を観て感じた。
「なんて雄大な自然なんだろう。この大自然に比べたら、自分はちっぽけな存在だなあ。」
と。
アンコールワットに初めて訪れた時も似たような感覚になった。
こんな壮大な寺院や彫刻を、自分よりもはるか昔の人々がまだテクノロジーも発展していない時代に、人力で創ったことが信じられないくらいにスゴイ。スゴイという言葉では全然足りないくらいにスゴイ。超スゴイ。(語彙力)
それは、先祖に対する畏怖なのか。
それとも、アンコールワットという創造物に対してなのか。はたまたその場に宿る何かに対してなのかは、わからない。
とにかく、「自分を超えた大きな力の存在」を感じ、圧倒され、敬わないではいられない気持ちになったのだ。
わたしにとって、「畏怖」という感覚はそういう類のものだ。
圧倒されつつも、敬意があって、怖いけれど、包まれる感覚。
そんな色んな感情や感覚が織り交ざったニュアンス。それが畏怖だと思う。
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話は変わって、最近友人に勧められて「喜びから人生を生きる~臨死体験が教えてくれたこと」という本を読んだ。
この書籍は一言で言えば、臨死体験を経て生還した著者が、臨死体験で体感した"感覚"を語る内容である。
ある日突然がん患者になり余命を告げられた著者は、生きるためにあらゆる治療を試すもがん細胞が全身に転移し、身体の痛みに耐えられずもうどうしようもなく生きることがつらくなった。
身体のつらさが極限になったとき、生き延びようとする抵抗をやめて「死」を受け入れた。そのときにあっちの世界(ここではあっちの世界をわかりやすく三途の川で区切られた死後の世界と置く)を束の間体験してきたという。
著者によれば、あっちの世界は、すべての存在に良いも悪いもない、宇宙のような場所だった。あらゆる境界線がなく、文字通り"すべて"が愛に包まれる世界であるという。
そこで著者は、がんになる前は、自分の人種や外見で自己否定ばかりしていたが、がんになり、「死にたくない」という最後の抵抗さえも明け渡した時に初めて、自分は愛の存在であることを体感した。
そして自分も、他者も、がん細胞でさえもすべてが愛の存在であるという確信を得たときはじめて、「私はまだ現世にこの感覚を伝える使命がある。そしてもう、現世に戻っても必ずがんは良くなる。人生はすべてうまくいく」と直感的にわかり、苦しいがん治療の真っただ中にある現実世界に戻ってきた。
簡単に要約するとそんな話である。こう見るとちょっとスピリチュアルな話かもしれないが、あきらめずに最後まで読んでほしい(笑)
私が印象に残った部分を著者の言葉で引用する。
がん患者になった著者は最初、がんは戦うべきものだという認識をしていた。がんはよくないものであり、悪い存在であり、やっつけるものだと。
だからこそ、たくさんのつらい治療を受け、とことん「自分」が「がん細胞」に抵抗していた。
そして臨死体験をして、気が付いた。
「がん細胞」も「わたしのイチブ」なのだということに。
そして同時に、"自分を超えた存在"でもあるということに。
もちろん、がんが見つかったのに何もしないで受け容れて治るのか?と問われたらそんなことはないはずだ。もしそうなら、病院なんて不要だろう。がんに対する最先端治療法も発明されているだろうし、そのような医学自体を否定しているわけではない。必要な治療や投薬にだって一定効果はあるはずだ。
わたしが個人的になるほど!と思った発見は、冒頭で綴った「畏怖」の感覚は、自然だけではなく「生命」や「身体」についても感じられるのではないか、ということである。もしくは、本来は自分の生命や身体についても感じるべき感覚なのでは?と。
がんにならずとも、自分の身体について畏怖の感覚(=自分を超えた大きな存在である)が普段からあれば、自分で自分の身体を痛めつけることなくリスペクトをもって付き合えるではないか、と。
わたしは最近むしょく大学というコミュニティの運営に関わっている。そこにはなんらかの理由で休職やむしょくを経験している人たちが集っている。
わたしも、自律神経失調症(パニック障害)の経験者で、休職やむしょく期間(=キャリアブレイク)を経験したことがある。
あたまはもっと動きたいと思っているのに反して、からだが思い通りに動かないとき、「どうして私のからだはちゃんと動かないんだ!!」と自分を責めてしまうことがあった。
むしょく大学に集まる人たちも、似たような悩みを抱いているようだ。
うつや適応障害等の精神疾患と診断されたことがある人は、このような自分のからだに対する葛藤を体感したことがあるはずだ。
先ほどの畏怖の話に戻る。
もし、自分の身体についても畏怖の感覚を持って捉えてみるとしたらどうだろう。
身体をまるでガンダムのような乗り物として扱うのではなく、
身体自体を"自分を超えた大きな存在"として敬意をもって観てみると、
「からださんは何を教えてくれようとしているのだろうか」
「自分の意図を超えて、身体がしようとしていることは何か」
などと新たな視点で自分の状態を捉えられるようになるのではないだろうか。
私は、キャリアブレイクをする前まで自分の身体に対して、生命に対して、畏怖の感覚を抱いていなかった。
ガツガツ仕事をしていた頃は、虚弱体質な自分が嫌いで、気圧の変化や生理によって影響されやすい自分の身体を、煩わしいとさえ思っていた。
でも、プレアヴィヒア寺院で感じたような「畏怖」の感覚を自分の身体に対して抱くようになってからは捉え方が変わった。
自然は、私のようなちっぽけな存在がどうこうできないくらい雄大で、大きくて、自分を包み込んでくれる存在だ。
成人式や結婚式など、一生に一度の晴れ舞台でどんなに晴れてほしかろうが、コントロールできない。晴れる時は晴れるし、雨の時は雨だ。
それと同じように、自分の身体だって雄大な存在なのだ。いちいち指示命令なんてしなくても、心臓は鼓動を続けてくれるし、寝ていたって食べたものを消化し続けてくれる。
からださん、スゴイ。めっちゃスゴイ。
いつも、絶えずそれぞれがリズムを刻んでくれてありがとう。
そう捉えたら身体を労わったり、敬ったりするご自愛タイムは生きる上で不可欠だ。身体は単なる乗り物ではなく、自分と身体は一心同体のパートナーだから。
先ほど紹介した本の著者も言っていた。
台風の時はじっとしているしかないように、身体がしんどい時は気が済むまで休めばいい。
身体や自分の生命という存在に対しても、畏怖の感覚を感じることで生きることがすこし楽に、ゆたかになるような気がしている。
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