保育士の長時間労働に向き合うには【社会福祉法人セヴァ福祉会事件・京都地裁令和4年5月11日判決】
「潜在保育士」という言葉があります。
保育士資格はあるものの、保育士としては就労していない方のことを刺します。
せっかく保育士資格を取得したのに保育士として就労しない(できない)理由のひとつに長時間労働があります。
たくさんの園児の世話、体調の把握、園だよりの作成、行事の企画・準備・実施、役所対応、親対応etc…ちょっと想像するだけでも全く気が休まる暇がなさそうです。
そうであれば、せめて残業代くらいはきちんと支払ってほしいところですが、実際にはずさんな労務管理のせいでそれすら不十分というケースが少なくありません。
今回は、そのような保育士業界の構造にノーを突きつけた事例として、社会福祉法人セヴァ福祉会事件(京都地裁令和4年5月11日判決)を取り上げます。
どんな事案だったか?
本件は、被告法人の運営する保育園の管理職として勤務していた原告が、未払の諸手当や残業代を過去にさかのぼって請求したところ、被告法人がこれを無視したため、原告側が提訴したという事案です。
被告側は、「残業時間の過大計上」、「1か月単位の変形労働時間制」、「固定残業代の合意」、「管理監督者性」などの論点を展開して原告の請求を争いましたが、裁判所は大筋で原告側の請求を認めました。
本件の事実関係
裁判所が認定した事実の概要は以下のとおりです。
原告の待遇面について
原告、平成17年4月1日より保育士として本件の保育園での勤務開始
被告法人の就業規則では、従業員の賃金は「年俸規程」により支給すると定められていた
平成26年4月1日以降、原告と被告法人との間で個別の労働契約書を交わすようになる。そのなかには、「キャリアアップ手当」「役職手当」「業務手当」「精勤手当」などの項目やその支給額が記載されていた
平成29年4月以降、原告の上記手当の支払額に変動があったとして、合計の賃金支給額が月額36万4500円(平成31年4月度)から32万5000円(令和2年3月度)に減額された
本件の訴訟提起までの経緯について
令和2年3月25日、原告、被告法人に退職の挨拶のメールを送信。そのメールには「契約書で提示されていた額が正しく支払われていなかった部分に関しては、しっかりとお支払いしていただきたいと思っています。」などと記載されていた
令和2年3月31日、原告、被告法人を退職
令和2年4月3日、原告、代理人弁護士を通じて被告法人に未払の賃金と残業代の支払を請求
令和2年4月16日、被告法人側の代理人弁護士、原告側に対して回答までに相応の時間を要するとの回答をした通知文書をFAXで送信
令和2年5月29日、原告代理人から被告側に対して進捗の問い合わせとタイムカードの開示をFAXで請求
その後、被告側は原告側に何らの回答もせず
被告側の主張
原告の請求に対し、被告法人は以下のとおり主張して原告の主張する残業代は発生していない、または過大であると反論しました。
原告はタイムカードの打刻時間を意図的に遅らせた
原告には1日1時間の休憩時間があった
原告は被告法人の残業禁止命令に違反し、残業許可申請もしていなかった
被告法人では1か月単位の変形労働時間制を採用していた
平成26年4月1日以降の労働契約書では基本給に1か月15時間分の固定残業代を含むとの合意をしていた
原告は管理監督者に該当する
平成30年3月度分の賃金は2年間の経過により時効で消滅した
判決の内容
タイムカードによる労働時間認定について
被告法人は、タイムカードの打刻時刻と、原告の実際の始業・終業の時刻との間に不一致があることを何ら具体的に立証できていない
むしろ、本件の保育園では、保育士の配置基準を満たす人数の保育士を配置できる勤務シフトを組もうとしても、保育士の絶対数が足りなかった
そのため、原告を含むほとんどの保育士が毎日残業をする前提で勤務シフトが組まれていた
原告は、令和元年度には総合責任主幹という管理職の立場での業務に従事しつつ、一人担任も務めていた
原告は、平成30年度には総合責任主幹としての業務とともに、乳児クラスの全クラスのアシスタント業務にも従事していた
そのため、原告は他の保育士に比して多忙であった
以上から、本件ではタイムカードの打刻時刻で労働時間を認定すべきである
休憩時間について
本件の保育園では、保育士の配置基準を満たす最低限の人数の職員で運営されていた
そのこともあり、一人担任の保育士は、休憩時間であっても、保育現場を離れることができず、連絡帳の記載など必要な業務を行って過ごしていた
食事さえも、業務の一部である食事指導として園児と一緒にとることになっていた
平成30年度は一人担任の保育士に交代で30分間の休憩をとらせるために、担当業務の肩代わりをしていたこと
以上から、原告は休憩をとることができていなかったので、休憩時間はないものと扱う
残業禁止命令違反の有無について
被告が主張する残業禁止命令や申請手続は、原告以外の職員からも遵守されていなかった
そのため、残業禁止命令の存在という主張自体を採用することができない
1か月単位の変形労働時間の有効性について
1か月単位の変形労働時間制を採用するためには、1か月以内の一定の期間を平均し、1週間当たりの労働時間が法定労働時間である週40時間を超えない定めをする必要がある
しかし、本件の保育園で適用される勤務シフト表は、週平均労働時間が常時40時間を超過するものであった
したがって、1か月単位の変形労働時間制の適用は認められない
固定残業代の合意の有効性について
被告法人の年俸規程によれば、基本給はその全額が時間外・深夜割増賃金の算定の基礎となるものとされていた
そのため、労働契約書の記載は就業規則の最低基準効(労働契約法12条)に抵触し、無効
原告の管理監督者該当性について
管理監督者に該当するためには「経営者との一体性」「労働時間への裁量」「ふさわしい賃金等の待遇」が必要
原告は勤務シフト表を作成していたが、これは被告法人の業務の一環として行われたもの。
原告は卒園等の式典に関する計画実施の統括等を行っていたが、これも被告法人の指揮命令に基づいて行われたもの
原告は職員の採用手続に関わったことがない
保育園の運営は被告代表者が単独で決定していた
以上から、原告には「経営者との一体性」となる地位はなかった
原告は残業前提のシフトに拘束されて勤務していたから、「労働時間への裁量」はない
月額40万円前後という賃金額や月額3万円から5万円という役職手当程度では管理監督者に「ふさわしい待遇」とはいえない。
したがって、原告は管理監督者に該当しない。
消滅時効について
「契約書で提示されていた額が正しく支払われていなかった部分に関しては、しっかりとお支払いしていただきたいと思っています。」というメールは、諸手当の請求しているもので、残業代請求としての意味は含まれない
したがって、平成30年3月度分の残業代請求権は時効により消滅した
まとめ
以上から、被告法人は原告に対してタイムカードの打刻時間に基づき残業代を支払う必要がある。
判決に対するコメント
残業代請求をめぐる論点を網羅したある意味で教科書的な事例だと感じました。
結論としては、平成30年3月度分の残業代の消滅時効を認めた部分以外は妥当だと考えます。
以下、私の抱いた感想を論点ごとに書いていきます。
休憩時間を労働時間と認めた点
一番印象的なのは、保育士業務の特徴と実態をもとに休憩時間部分も労働時間と扱いその分の残業代請求を認めた点です。
多くの残業代請求事件において、労働者側は休憩時間についても何らかの業務対応の必要があったことを理由に残業時間に含めて残業代を請求します。
ところが、裁判所は「そうは言ってもトータルで見ればある程度の休憩はあったでしょう」という感じで割とあっさり休憩時間を認めがちです。
これは、もしかしたら原告の主張のままだと残業代が高額になりすぎて「バランスが悪い」という感覚が生じるからなのかもしれません。
しかしながら、実際にある程度残業が発生しているのであれば、休憩時間にも労働の解放がなかったと事実上推定してもよいように思います。
そうであるとすれば、労働者としては始業時刻と終業時刻により相当の残業を立証できたとすれば、休憩時間については実際に休憩がとれていたことを使用者側に反証させるのが公平であると考えます。
ただ、裁判所がそのようなロジックで労働者側に労働時間立証の負担を緩和したわけではなさそうです。
なぜなら、判決理由からは「シフトどおり勤務したとしても残業が発生する」「実際の就労内容も過密である」という保育士業務の特徴と実態に着目して初めて休憩時間の存在を否定していると読むことができるからです。
すなわち、今回は原告側が勤務実態を詳細に立証できたため例外的に休憩時間の労働時間性が認められた事例であると理解すべきかもしれません。
ただ、どのように主張立証すれば休憩時間も労働時間として認めてもらえるかは非常に参考になる事例だと感じました。
固定残業代性を否定したロジックについて
一般に、固定残業代が有効となるための要件は固定残業代部分とそれ以外の賃金部分が判別できること(判別可能性)、問題となる賃金・手当が残業への対価の支払としての性質を有すること(対価性)が必要とされます。
しかしながら、今回の裁判所はそのような判定を行いませんでした。
なぜなら、被告法人で適用される年俸規程において基本給部分も残業代計算の基礎とすることを前提とした規定が設けられていたからです。
すなわち、個別の労働契約の労働条件が就業規則のものよりも不利な場合、その部分を無効として就業規則の基準を用いることになっています(労働契約法12条)。
今回は、残業代の計算上、基本給全額を残業代の基礎にする年俸規程の方が固定残業代制を定める労働契約書の規定よりも有利でした。
そのため、判別可能性+対価性の要件を用いるまでもなく固定残業代を無効とできる事例でした。
このように、本事例は就業規則との整合性を根拠に固定残業代の有効性を争うことができることを示している点でも参考になります。
1か月単位の変形労働時間制について
本件では、裁判所が指摘するとおり、作成された勤務シフト表自体が1週間当たり40時間を超えるものとなっていたことから、1か月単位の変形労働時間制として有効とならないことは明らかです。
いかにも杜撰なシフト管理ですが、実際に残業代事件を扱うと今回のような事例はしばしば見られます。
その他、
一度決めたシフトを使用者側の都合で自由に変更できる
シフトの作成ルールが従業員たちに周知されていない
というケースも見られますが、同様に変形労働時間制の有効性が否定されるリスクが高いです。
管理監督者性について
保育の現場で過密・長時間労働を強いられているという点から「経営者との一体性」と「労働時間への裁量」のどちらの観点からも認められる余地はなかったと思われます。
その上で、「月40万円程度の賃金ではふさわしい待遇とはいえない」とした点は興味深く感じました。
管理監督者性が問題となる事例において、使用者側は「同じ職場・職種の労働者と比較して優遇されている」という趣旨の主張をします。
しかしながら、本件の裁判所は原告の勤務歴の長さや管理職としての肩書きの存在を理由にその程度では不十分としています。
管理監督者が経営に参画する地位にある者である以上、単なる管理職としての待遇を超え、さらに手厚く賃金が優遇される必要があることまで主張立証しなければならないことを示唆している点で、同種事案の参考になるように思われました。
消滅時効の成立について
裁判所は原告が送ったメールにつき給与本体部分のみの請求を意味しており残業代請求としての意味を含まないとしました。
しかしながら、労働者が未払賃金の性質や内訳を意識して、その一部分だけを請求していると解釈するのは技巧的であり、また、そのように解釈しなければならない理由もないように思われます。
むしろ、労働者としては、退職の機会に未払残業代を含めた一切の賃金問題を解決する目的で賃金請求をしていると理解するのが自然ではないかと思われます。
しかも、原告はメールを送信した1週間後には代理人弁護士を選任して残業代も含めた未払賃金を請求しています。
そうすると、本件では平成30年3月25日のメール時点で原告から被告法人に対する残業代の請求がされていたと評価すべきではないかと感じました。
最後に
以上、社会福祉法人セヴァ福祉会事件を取り上げました。
判決も言及していますが、本件では
市の配置基準をみたす勤務シフトを組もうとすると必然的に残業前提のシフトとなる
配置基準を満たす人員で運営をしても、休憩をとることができない
という保育士業界の構造的問題を指摘しています。
つまり、保育士の世界では
保育士への賃金に充てられる総予算が少ない
配置基準が設定する人員数も少なすぎる
という政策上の理由もあって長時間の過密労働が発生しているわけです。
そうすると、この問題を抜本的に改善する方法は、
保育士の賃金を上げる
配置基準となる保育士数を増やす
という政策レベルでの大規模なカネとヒトの投入しかないのかもしれません。
もちろん、企業として経済活動に参加している以上、労働関係法令を遵守すべきであり、日頃からその学習・実践をしておく必要があります。
他方で、保育園の業界では、保育士に投入できるカネとヒトが限られているため、そのような自助の努力だけに頼ることには限界がありそうです。
今回の事例からは、コンプライアンスの重要性もさることながら、政策レベルで保育園の保育士の待遇改善と経営安定を実現する必要があることが示されたと感じました。
今回も最後までお読みいただきありがとうございました。
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