文字を持たなかった昭和 七十九(田植え、その四――ミヨ子)

 田植えについて、わたしの思い出話ばかり書いてしまった(その一)。これらはもちろん家族の思い出でもあり、母ミヨ子とも共有しているものではあるが、ミヨ子個人についてまったく触れていなかった。田植えの日のミヨ子の働きについて書いておきたい。

 田植えに限らないが、農繁期は基本子供を含む「家族総出」であり、作業量によって近所や親戚から手伝い(加勢)をもらった。近隣も基本的に農家なのでお互い様でもあった。

 田植えの頃はもうかなり暑いので、朝早くから出かけていた。ミヨ子は朝食と昼食の準備を並行し、朝食後は片づけとお茶の準備をしてから出かけるため、起きてからやることがたくさんあった。台所にプロパンガスが入るまでは竈で煮炊きしていたので、薪で火を起こしていた頃はより忙しかった。

 田んぼは何枚もあったが、家から近い田んぼなら昼ごはんに帰って来られるので、お茶だけ用意し一足遅れて出かけてもよかった。歩いて行くには遠い田んぼなら、夫の二夫(つぎお)が運転する耕運機に同乗するために、支度を急がなければならなかった。舅の吉太郎や姑のハルも、体が動く間は――それぞれ92歳と88歳で亡くなる直前まで――田んぼや畑に出ていたので、耕運機の荷台に家族が乗って田んぼに向かった。

 耕運機の荷台に人を、しかも複数載せるなど明らかに道交法違反ではないかと思うが、昭和40年代はそれほどうるさく言われなかったのだろう。

 田んぼに着いたら、ミヨ子も早速田植えの列に加わる。田植えが始まっている場合は適当な位置から入っていく。一人でも植え手が増えれば全員の分担は楽になるし、何より跡取りの嫁としては一人前以上の働きをするのが当然だと、本人も周りも思っていた。

 田植えが一段落したらお茶にした。「魔法瓶」と呼んでいたポットはもうどの家にもあり、ミヨ子も熱いお湯を「魔法瓶」に詰めて持ってきていた。そのほかには、大きめの土瓶に多めの茶葉、人数分のお茶碗、そしてお茶請け。

 お茶碗はもちろん陶器で、お茶道具一式だけでもかなりの重さだった。お茶請けは手作りのものが基本で、漬け物や梅干し、せいぜい小さく割った黒砂糖など(鹿児島の奄美地方は黒砂糖の産地でもある)。あくまで小休止なので、お茶を2杯くらい飲んでちょっとおしゃべりしたらすぐ作業に戻るのだが、お茶碗の片づけなどはもちろんミヨ子の仕事だった。

 田んぼが遠くて自宅に戻れない場合、お昼用に簡単なお弁当を用意した。「簡単な」というとおむすびの類を連想するが、人数分のおむすび――下手すると20個以上――を、朝食の支度と並行して炊き立てのご飯で握るのは手間も時間もかかる。だいたいは、それぞれのお弁当箱にご飯を詰めて、簡単なおかずを別に持って行き、昼になったらおかずをつつきながら食べる、というスタイルだった。

 だが、お茶なしで弁当を食べるわけにもいかない。休憩のお茶で使うお湯の量を考えると、よほど遠い田んぼを除き、お昼ご飯まで持って行くことは稀だった。

 いずれにしても、お茶やお昼の支度や片づけは、ミヨ子の仕事だった。一人前に田植えをして疲れていても、まず晩ご飯の支度に取り掛かり、並行して洗濯ものを取り込んだり、田んぼで使ったお茶碗などをきれに洗ったりしなければならなかった。

 こんな生活が一年三百六十五日、何年も何十年も続いた。農家の跡取りの嫁としての自分をどう考えていたのだろう。

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