文字を持たなかった昭和386 介護(5)余談、おむつと鹿児島弁
昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴っている。
最近は、ミヨ子が嫁として仕え、最期を看取った舅と姑の亡くなる前の介護の様子を記しておくことにして、「介護」というタイトルで書き始めた。 昭和40~50年代のできごとである。
「当時の状況①」、「当時の状況②」で、介護という概念すらなかった当時を振り返ったあと、前々項と前項で舅・吉太郎(祖父)のお世話についてを述べた。吉太郎は寝込んで2週間ほどで大往生したため、いまでいう介護らしい介護はあまりしなかったのだが、古い着物をほどいて布のおむつは用意したことも。
その「おむつ」を、ミヨ子たちは「したし」と呼んでいた。当時は赤ちゃんのおむつも――というより、おむつは本来赤ちゃんのためのものだ――布が当たり前で、それらも同じく「したし」と呼んだ。
「ひたし」だったような気もしてインターネット上の鹿児島弁辞典で確認するとどうやら「したし」が正しい。「浸し」が訛ったもの、とあるので「ひたし」という地方や人もあるかもしれない。
アクセントは「た」にあり、最期の「し」は弱く、後ろにくる言葉によっては変化する。つまり
「おむつを洗っておきなさい」は、
「したしを 洗(ある)て おかんか」→「したしょ 洗(ある)ちょかんか」という具合だ。
赤ちゃんのおむつは布、それも手縫いが当たり前だったが、昭和40年代の農村でも、出産祝いにする既製品のおむつが衣料品店などで出回っていた。パッケージには当然「おむつ」と書いてあった。
だから、子供だった二三四(わたし)の中では「赤ちゃん用=おむつ、寝込んだおじいさん・おばあさん用=したし」という分類がなんとなくできあがった。大人たちも、鹿児島弁より標準語のほうが上等という意識がなんとなくあり、赤ちゃん用はおむつと呼ぶことが増えつつあった。
テレビというまさに画期的な媒体によって、東京を中心とするマスの情報と言葉が地方にも押し寄せ、標準語に近づけることがより新しい、より上等な生活、という意識が植えられつつある時代だったとも言える。
いまと違い続々と生まれる赤ちゃんが使うものは、生活の中でも自然に目についたので、あくまで赤ちゃん用としての「おむつ」は先に定着する一方、高齢化など遠い将来で、大人がおむつを使うことなどピンと来なかった(そもそも大人用のおむつは商品化もされていなかった)時代、大人用にやむなく布で手作りしたおむつは方言のまま「したし」だったことは興味深い。
余談ついでに言うと、手元にある昭和50年発行の鹿児島弁辞典の一種『さつま語の由来』に「したし」は掲載されていない。鹿児島県内の旧制中学校や戦後は高等学校で国語教師を務めた牛留致義氏の手によるものだが、作者の個性か、男性の語彙には「おむつ」がなかったのか、おむつのような品のない(?)ものを載せる気がなかったのか、これまた興味深い。
《参考》
【公式】鹿児島弁ネット辞典(鹿児島弁辞典) (kagoshimaben-kentei.com)
※本「辞典」の「おむつ」には「したし」のほか、「しめし」(湿し)、「もづっ」(襁褓、むつきの転訛)が収録されており、鹿児島でも地方により違いがある(あった)ことが推測される。
『さつま語の由来』(牛留致義著、南日本新聞出版印刷、昭和50年10月発行)
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