母は精神疾患でした【詳細版】⑤|母からの攻撃 高校生時代
■高校生時代
母は「病気のせい」という言葉では片づけられないほど、中学時代よりもっとひどい状態に陥っていきました。
今振り返ると、私が高校生だった頃の母は、境界性パーソナリティー障害の要素が強かったのではないかと思います(当時はパーソナリティ障害かもわかりませんでした。今となっては推測にすぎません)
そう考える理由は、以下の境界性パーソナリティー障害の診断基準にピッタリと当時の母が当てはまるからです。
当時の母も、物事の捉え方や考え方が極端で(0か100のような感じでした)、感情や衝動のコントロールがきかず、自傷や自殺行為を脅しの手段として使ったり、浪費等を繰り返したりして、結果的に対人関係(家族関係)に支障が出ている状態でした。
母はこの中でも特に②「理想化とこき下ろし」が顕著だった気がします。
理想化とこき下ろしとは、相手を「良い人」か「悪い人」の二極化した考えで評価することです。
図にしてみました。
この「Aさん」の立ち位置になったのが私の父でした。
きっかけは父が切り出した離婚話でした。
■高校入学後、父が離婚を切り出す
父が離婚を切り出したのは、私が高校1年の時だったかと思います。
双方合意の上で離婚する方針で話が進み、母はそれがきっかけで祖母・祖父の家(母の実家)で暮らすことになりました。
私は「母にびくびくせずに生活できる」と安心した気持ちでした。
別居生活は母にとっても功を奏したようで、精神疾患の症状はかなり落ち着いていきました。
別居生活からしばらくたって、母は仕事するまで活動的になっていました
(しかも夜職?をしているようでした)
ただ、当時の私は、もう母がどうなろうが全く関心がなかったので
「早く離婚してほしい‥そうすればこのめんどくさい日々から解放されるのに‥」
と、離婚話をきっかけにして、自分の生活が安定することを期待していたのですが、その後状況はどんどん悪化していきました。
■「離婚は絶対にしない!!」と逆上する母
両親が別居してしばらくたった頃、もう離婚届に名前さえ書けば離婚が成立する状態だったのですが、なぜか母が「離婚は絶対しない!!」と言い始めました。
母の言い分はこうでした。
「離婚に合意した時は、私は冷静な判断ができないほど、病気がひどい状態だった」
「なのに、父は私に離婚を合意させるために、あえてその時期を選んだ。私は騙された!」
「そんな父を私は絶対に許さない!」
となぜか父に対して、恨みつらみを言い始めたのです。
今振り返るとまさに、父の「こき下ろし」だったのではないかと思います。
こうして、母にとって父は「理想の良い人」から「悪い人」になりました。
母の中でそう切り替わった瞬間、母は父を攻撃対象としてみなし始めたようです。
■父への陰湿な嫌がらせ
母はこの頃から、別居先の祖父母の家(母の実家)から私達の家に来ては、父への嫌がらせをするようになりました。
◎父の枕の下に赤文字で「呪死 1時間でも早く」と書いた紙を置く
◎家中の父の所有物をかきあつめて隠す
⇒父の服・整髪料・シャンプー等を全てごみ袋にいれ、玄関・室外に放置していました。
◎父の愛用品(椅子)を隠す
⇒母が隠しては、父が見つけて元の位置に戻すのを繰り返していた結果、最終的に母が椅子の支柱をのこぎりで切断する
◎罵詈雑言を並べたメールを送る。実際、母からきたメールです↓↓
(原文を元に少し編集しています)
父からこのメールを初めてみせられた時は、「ありえない」と呆然としました。
本当に言葉が出ませんでした。
他にもここには掲載できないようなひどい内容のメールがたくさんありました。
その全ての内容が事実と異なり、母の都合の良いように置き換えられていました。
また、母の語彙力に感心してしまうほど、父の感情を逆なでし、煽るような文章がたくさん並んでいました。
これだけ母に挑発されても、父は一切、母に手を出すことはありませんでした。
また、私達と話す時は少し感情的になることはあっても、母には常に冷静に対応していました。
しかし、父は仕事中も、仕事が終わってからも、ずっと母から攻撃を受け続けている状態でした。
本当に我慢をし続けて、限界を超えていたと思います。
■私と妹は2人の板挟みに
母は、父に嫌がらせをする一方で、私と妹には夕食を作ったり、洗濯をしたりと世話を焼いていました。
(この際も父の分にだけ手つけませんでした)
そして毎回、毎回、私達を洗脳するかのように同じ話をしました。
その話は、「夫に無理やり離婚を切り出され、家を追い出されたかわいそうな私の味方をして、離婚させないようにしてくれ」というものでした。
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
「お父さんは本当にひどいよ。私が1番状態が悪い時に離婚を切り出した。」
「私は病気なのに。ひどいよね」
「お母さんは離婚したくないのに、無理やり離婚の流れにさせられた」
「お父さんは卑怯だと思わない?」
私は、かなりうんざりしていました。
『父にどうしてあんなひどい嫌がらせができるの?私達家族はあなたのためにお金と時間と労力を全て使ってきた。子供の立場からしても、あなたに構うのは、本当に限界だから早く別れてほしい。あなたは自分が少しでも家族に迷惑をかけてると思ったことはないの?』
と言いたかったです。でもその時は言えませんでした。
まだ母親の病気の部分に配慮していたんだと思います。
昔の病気に苦しんでいる母の姿を知っている分、簡単に切り捨てることができませんでした。
なので、どんなに母にイライラしても本音を隠して、「はいはい、そうだね」と言って受け流していました。
しかし、父が母から陰湿な嫌がらせを受けている姿を、私は無視し続けることはできませんでした。
そして、次第に私は母にあからさまに反抗の態度をとったり、父の嫌がらせをやめるよう、母を説得するようになりました(うんざりとした態度で)。
そうしているうちに、私と母との関わりは最小限になりました。
そして、父と同じように私も母と敵対していきました。
■母から受け取った手紙
母と敵対するようになったある日、母が私宛てに置き手紙を残していきました。
実際の手紙より抜粋しています。
「サタンの子」
「産んだ子じゃない」
「さようなら」
この言葉をみて、当時は本当にショックで、読んだ瞬間に大号泣しました。
母に反抗していても、優しい頃の母をかすかに信じていたからです。
全ての母の言葉一つ一つが私の心を壊し、私は何時間も泣いていた気がします。
手紙は破りすてました。
(後に父が調停のため復元し、現在も残っています)
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