多様性について考える
最近、ホリエモンこと堀江貴文氏の切り抜き動画をよく見ている。
ホリエモンは同年代であり、ライブドア事件のころから考え方に共感できる、オピニオンリーダーとして注目している。
だからといって、全面的に発言を信じる、信者というわけではない。
ホリエモンは、数か月前に投稿された切り抜き動画で、このような意見を表明していた。
義務教育は必要ない
今でも同じことを言っているかどうかわからないが、その時は明確にそう言っていたと思う。
ホリエモンが言ったか言わないかというよりも、以下、義務教育は必要ないのかどうか、問題提起として考えてみることにする。
とはいえ、小学校や中学校の果たしている役割は、短い文章で考察するの無理だろう。
いきなり匙を投げるわけではないが、この場では「共通の価値観」という側面について考える。
なぜなら、このあと最近かますびしい「多様性」のほうへ話を展開するからだ。
共通の価値観、ユヴァル・ノア・ハラリ著の「サピエンス全史」においては「虚構」とも呼ばれている。
同著によると、ある程度大きい集団、具体的には150人以上の集団が協力するには、虚構が必要だという。
代表的なものとしては宗教であり、現代では国家や、会社(法人)であったりする。
宗教が虚構であるということは、信者には大いに異論があるだろうが、そうでなければ客観的な事実として理解できそうだ。
しかし、国家や会社が虚構であるということは、にわかには理解しづらいかもしれない。
国を例にとってみれば、自分が日本人であるという認識は、普通の日本人にとっては、揺るぎのないものであろう。
しかし、よく考えてみると、日本というのはなんなのか。
全て陸で続いているわけでもなく、太古から存在していたわけでもない。
場所によっては、もともと日本でなかったり、日本であったのに、外国に変わってしまった土地もある。
民族にしたところで、日本人全員が同じ民族であるという確証はないし、そもそも民族の定義も科学的には難しそうだ。
遺伝子を調べれば、少しずついろいろな民族のDNAが混ざっていると言われる。
日本の法律でそうと決められている人を、日本人だとするのが最も合理的と思われるが、その法律にしたところで、絶対的なものとはいいがたい。
例えば、法律を犯したとしても、警察が逮捕して、裁判で刑が確定しなければ、刑罰に問われないこともあり得る。
一方で、冤罪というものもある。
日本という国も、法律も、そこに住む人が信じているから成立しているだけの虚構なのである。
「赤信号、みんなで渡れば怖くない」ではないが、みんなで一斉に法律違反したら、警察も裁判所も追いつかないのである。
そうなったら、法律のほうを変えるしかない。
会社について考えてみよう。
実は僕自身、考えたこともなかったのだが、つい最近、こういうことがあった。
中古住宅の仲介を依頼されたため、固定資産税の額を調べるために、依頼者に直筆で「委任状」を書いてもらった。
これを持って行けば、市役所で固定資産評価証明などが取得できるはずだった。
ところが、窓口に行った社員は、こんなことを言われたという。
「委任されている会社が存在するのか、あなたがその社員であるのかが確認できないので、発行できない」と。
あまりのことに愕然としてしまったのだが、考えてみると、会社が存在することはともかくとして、その社員を、当社の社員だと証明する方法は思いつかなかった。
給料を銀行から振り込んでいれば、通帳が証明になるかもしれないが、今のところ当社は現金手渡しである(旧態依然で恥ずかしいが…)。
10年以上も勤めている社員なのに、証明する方法がないのだ。
思いがけず、会社とか組織というものが、強固なようでいて、実はいかに心もとないものであるかを知る機会となった。
会社自体は登記簿などで証明できるが、集団の構成員であることを証明するのは、意外に難しいのである。
さらに登記簿にしたところで、ヒューマンエラーや事故によって、書き換えられたり、消滅してしまったりする可能性だってあるのだ。
ただ、人々の記憶と認識にあるだけで、ふとしたことで、なかったことになるかもしれない虚構なのである。
ユヴァル・ノア・ハラリは、これらの虚構を、集団が信じることで、150人以上の集団が協力することが出来るというのだ。
なお150人というのは直接コミュニケーションして、認識、記憶できる人数であるらしい。
知らない人を信用することは難しいが、同じ信仰などの虚構があれば、信用することが出来るというわけだ。
あるいは、海外に行って、日本人に会えば、知らない人でも比較的たやすく信用する気持ちになるだろう。
さて、義務教育の話に戻ろう。
義務教育とは、国語、算数、理科、社会、体育、その他の科目を教えると同時に、集団生活や、道徳なども教える場所である。
いわば、社会生活の根幹にあたる部分を教える。
今は英語もあるのかもしれないが、ともあれ、国語も含めた言語はコミュニケーションをするために、言うまでもなく重要である。
また四則演算が出来ることや、歴史の認識、科学の知識なども共有されていれば、話が通じる速度は速くなる。
もし義務教育がなければ、知識に偏りと差が大きくなって、コミュニケーションに多大な時間がかかることが予想される。
小中学校で習ったことを、いちいち説明しなければならないということだ。
そして、この教育内容は、日本全体でかなりの部分、統一されている。
ホリエモンの理論によれば、不得意なことを全員が一律に学ぶ必要はなく、好きで得意なことだけ教えたほうがいいし、これからは集団生活というものもなくなって、オンラインで好きなことを好きなだけ学ぶことが出来るから、現在のような学校に通う制度は必要ないという。
一理あるかもしれないが、得意だとか苦手だとか、好きだとか嫌いだとかいう感覚は、果たして信用できる感覚なのだろうか。
僕は子どもの頃はニンジンは嫌いだったが、今はスーパーに行って、自らニンジンを買うことがある。
歴史は苦手で嫌いだったが、今は面白いと思う。
虫を捕まえるのが好きだったが、今は虫は嫌いだ。
子どもの好き嫌いなどはそんなものだと思うが、いや待て、そんなことを語るつもりではなかった…
子どもの時代に義務教育の現場で形作られる「共通の価値観」の重要性である。
ユヴァル・ノア・ハラリが言うところの「虚構」でもある。
虚構というとネガティブなイメージになるが、国家という集団を少なくとも争いなく形成するうえで、不可欠なものである。
考えてみると、小学校や中学校の義務教育は、この共通の価値観、ないしは虚構を構築する上ではうってつけである。
最初に同年代のホリエモンの意見には共感できると書いたが、これももしかすると義務教育のたまものかもしれない。
教育の指針は年々変わっていくため、地域や属性という縦割りの虚構に加えて、年代という横割りの虚構も構築されると思われる。
○○世代という言い方は(差別的にとらえられる可能性があるので、具体的には書かないが)、共通の特徴をもった集団を世代で把握する試みである。
同じ価値観を持った人間ばかりが集まれば、争いごとは少なくなるし、あったとしても仲裁しやすい。
国内では法律は共通であるが、道徳的な部分は共通の価値観に依存する。
先鋭的な菜食主義の人たちは、動物を殺して食べる人や行為を悪とみなすかもしれない。
しかし、当然、法律違反ではない。
正義、正しいこと、悪いことというのは、全てとは言わないが、少なくとも一部は虚構なのである。
手塚治虫の「アドルフに告ぐ」は、正義と正義の対決を描いた漫画であるが、正義が絶対であれば、ぶつかることはあり得ない。
小学校では日々、喧嘩も起こるが、その後、学級会が開催されて、どちらが悪いのか、なにがいけなかったのか、みんなで検証する。
こうして生まれる、共通の価値観もあるだろう。
「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」というブレイディみかこの随筆がある。
イギリスで暮らす日本人の著者と、イギリス人の夫との息子のことを書いた本である。
息子の通う中学校は、国際色豊かな生徒が在籍し、日々さまざまな問題が発生する。
多くは人種差別や、国の文化の違いによるもので「多様性は物事をややこしくし、喧嘩や衝突が絶えないし、ないほうが楽だ」というやや衝撃的な、著者のコメントが出てくる。
近年、日本では同性婚や、LGBTQの問題が、国会やメディアで取り上げられるようになった。
最近、ツイッターで目にしたのは、LGBTQ対応のトイレ問題である。
従来の男子トイレや女子トイレのように入口を分けず、男女共通のトイレ内に個室型のブースを設置したものが、モデルとして提示されているようだ。
実は僕の会社でも、三重県内の高校の改修工事で、同様のトイレを設計したことがあるが、これは県からの要請によるもので、やはり同じモデルを提示された。
しかし、そのモデルが、性犯罪を呼び起こす可能性があるとして、批判をあびているようだ。
ゲイであることを公表している、カマたく氏も疑問を呈した動画を投稿していた。
まさに、多様性が物事をややこしくしているのである。
そもそも多様性を認めるということがどういうことなのか、整理して考える必要があるのではないかと思う。
前述のブレイディみかこ氏の多様性に関する発言は、息子の「多様性っていいものなんでしょ?学校でそう教わったよ」という疑問に答える形で発せられている。
現代の社会は、グローバル化の波にしたがって、全世界、共通の価値観を持つ方向に向かっている。
それは、自由と平等であり、個人の権利の尊重である。
その中に多様性を認めるということが含まれる。
一方で争いを避けるために、もっと細かい共通の価値観がある。
たとえば日本なら、挨拶をする、失礼なことをしてしまったら謝る、不義理をしない、上座や下座、礼儀、目上の人への態度、敬語などの慣例がある。
こういうことを怠ると「なんだあいつは」と思われてしまう可能性もある。
これらは元々、摩擦をさけるために、作られてきた慣例ではないかと思う。
学校では、嘘を言ってはいけないとか、人を傷つけてはいけないとか、人に悪口を言ってはいけないとか、食べ物を残してはいけない、というようなことを教え込まれた。
これらは必ずしも、法律で禁じられていることばかりではない。
社会の規範のベースとなるようなことを、授業だけでなく、集団生活によって学ぶ場であると思う。
誰でも自分は常識をわきまえた人間だと思っているものだが、その常識とは一体どこで身に着けたのか。
義務教育の場に依存することが多いのではないだろうか。
また男はこうであるべき、女はこうであるべきという価値観も、最近では非常に忌み嫌われる考え方ではあるが、社会の混乱をさけ、秩序を形成するために考案されたものであると考えられる。
男子トイレと女子トイレをわけることも、絶対的に正しいこととして決められたわけではなく、現代ではたまたまそうなっているだけなのである。
なぜ排泄を他人から、あるいは異性から見られないようにするべきなのかも、実はよくわからない。
動物のように、オープンにしたらなぜダメなのか?
今は知らないが、ほんの一昔前の中国では、トイレは男女にわかれておらず、しかも丸見えだったという衝撃的な話もある。
江戸時代の銭湯は、まだ男女共同だったという話もあるし、未だに混浴の温泉もある。
トイレや風呂のスタイルも、こうでなければならないという共通の価値観や、虚構にもとづいているのである。
例えば、トイレの形態がバラバラで、統一されていなかったとしたら、勝手がわからずに困ってしまう。
日本中どこに行っても、トイレの形態はほぼ同じで、公衆トイレの場合でもサインが統一されているから、なんの気なしに利用できるのである。
統一されていることは、人間が社会生活を送るためには、有利なことなのである。
ではなぜ、多様性がいいことだと思われているのだろうか。
正直に言うと、幻想の部分が多いように思うが、一方で現実的な面に目を向けると、統一されたルールや形態に適応できない人がいるからである。
たぶん幻想の部分というのは、多様な人がいて、それぞれに得意な能力を発揮すれば、人類の発展や幸せに貢献するというものだろう。
たしかに個性的な人が、新しい発明をしたり、イノベーションを起こしたりして、テクノロジーや社会が進化することはあるようだ。
しかし、アインシュタインや、エジソンや、トーマス・ジェファーソンや、坂本龍馬のような人物が、多様性社会の中から生まれやすいという証拠は何もない。
一方デメリットを考えるとすると、会社という組織を想像してみればわかるだろう。
型破りな人物が1人いるぐらいなら許容するかもしれないが、10人もいたら収拾がつかないだろう。
会社員はだいたいどのような部署に異動になっても、それなりにパフォーマンスを発揮できる人でないとつとまらないのである。
LGBTQや発達障害をもつ人、その他の社会に適合できない人にも、個人の人権や自由、幸福の追求が出来るようにすることは、憲法にも定められている国家の使命ではある。
しかし、多様性がいいものだという考え方には、少し疑問が残る。
生物多様性と、人類の多様性をごっちゃにしているのではないだろうか。
進化の考え方からすれば、多様性が必要というのはわかる。
しかし、進化というのは何千年、何万年もかけてするものであり、現代の社会においてそこまで考えるのは、なかなかの深謀遠慮であると感心する(これは皮肉)。
戦争の原因というのは様々だが、目的は相手の国のルールを変えることにあるという見方もあるらしい。
例えば、日本がアメリカに敗戦した時、マッカーサーがやってきて、日本国憲法の草案を作ったように。
自分たちと同じルール(共通の価値観)にすれば、争う可能性が少なくなると考えられているからではないだろうか。
話をまとめると、多様性という言葉は独り歩きしているが、多様性は素晴らしいものということではなく、多様性を受け入れて、全ての人が幸せになれるように社会を構築するべきということである。
つまり、多様性は解決すべき課題であって、推進するものではない。
個性は持つべきだが、それはほんの少しの、料理で言えば調味料か、隠し味程度のものであって、全く価値観の違う人間を許容するのは難しい。
以上のようなわけで、義務教育をなくすべきではない。
一方で、その内容を調整する必要は、常にあるだろう。
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