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人間は所有したい生き物
最近のパターンとして、コテンラジオを聞いて思いついたことを書くというものがあるが、今回もそのパターンである。
構造主義の祖とされる、レヴィ・ストロースについてのシリーズで、インセスト・タブーについての話があった。
インセスト・タブーとは、世界中の地域で、ほとんど例外なくある婚姻についての禁止事項(タブー)のことだ。
日本では3親等内の結婚は禁止だし、中国では昔同じ苗字の人とは結婚できないということがあった。
同様にして、西洋でもアフリカでも、アラビアでも、東南アジアでも、南米でもポリネシアでも、形を変えつつも、必ず婚姻に関するタブーがあるという。
これは不思議なことだという問題提起である。
その謎をとくために、レヴィ・ストロースは先輩文化人類学者マルセル・モースの説を引用する。
その説とは「人間は一般的に交換をする生き物である」ということだ。
交換の目的はコミュニケーションであり、交換をしないと、内へ閉じてしまって個や集団として弱くなる。
そのために、ある一つの部族は、他の部族と物品を交換する。
その一つが、婚姻、つまり女性を交換するということだという説である。
こんなことをいきなり書くと、フェミニストから反発がおこりそうなんだけど、これは長い研究によって、人類の多くの集団において、普遍的に行われてきたことととして、見出されたことということで、そのように一旦理解するしかないだろう。
さて、ここで今回のテーマは、レヴィ・ストロースはあまり関係がなくて、ポイントは「人間は交換する生き物」であるというところだ。
前回の投稿で、貨幣経済や所有を原則とする資本主義を否定するコミュニズム、つまり共産主義のことを書いた。
ちなみに、レヴィ・ストロースも若い頃にマルクスの資本論を読んで、共産主義に傾倒したらしい。
共産主義と資本主義の大きな違いの一つは、所有の観念であろう。
共産主義は個人が所有をせず、共有するという考え方が基本になる。
つまり、農地などはコミュニティの共有のもので誰かのものではなく、さらに収穫したものも共有するというような社会形態だ。
一方、資本主義はあらゆるものを、貨幣と交換可能な所有物とするところに特徴がある。
共産主義者は、資本主義における資本家は、労働者から搾取する存在であり、そのような社会では労働者は幸せにはなれないと考える。
また資本主義社会においては、常に社会は進歩し、発展することが前提となっているため、資源を乱用して環境破壊が起こる。
共産主義社会では、労働者が主体的に土地や食べ物などの資源を共同で管理し、そこでは格差は生まれず、搾取もない。
一方で進歩や発展などもない、定常的な社会であるという。
確かに有限の資源を使って、持続可能な営みをするならば、後者の方が適している気がする。
非常に説得力がある。
しかし前回の投稿では、そのようなコミュニティには脆弱性があるのではないかという指摘をした。
つまり、外部から悪意をもった人物(羅刹)が入ってくると、共産主義的コミュニティは、彼を排除する術をもたず、好き放題されてしまうのではないかということだ。
今回は別の観点からの、共産主義への指摘である。
僕がもともと考えていたのは、共有への疑念である。
下記の投稿にも書いているが、まず人間は自分のものでないものを大切にすることが出来ないという経験則がある。
共有が難しいもう一つの理由として、人間には所有欲があると思うのだ。
これについての根拠には、(元?)お笑い芸人の松本人志氏が、放送室というラジオ番組で語っていたことを引用する。
(昨今の性加害疑惑などから、フェミニストのみなさんの中には、松本氏が嫌いな人も多いと思うが、先ほどと同様、本人の是非はともかく、単なる事実としてとらえていただきたい)
松本氏が幼いころ、お兄さんが所有しているおもちゃが欲しくて「ちょうだい」と言うと、兄は「あげることは出来ないが、ずっと貸しといてやる。それならあげるのと同じだ」と答える。
松本氏は、そう言われても納得できず、すごく嫌だったというのだ。
もらうことと永久に借りることは実質的には同じでも、感覚的には全く違う。
兄のほうも、あまりいらないものだけど、自分の所有物でなくなることはなんとなく嫌だったのだろう。
とても共感できる話である。
周りからゆるぎない承認をえて、価値のあるものを、自分だけのものとして所有したい。
これは人間の根源的な欲求ではないだろうか。
ここで、先ほどの「人間は交換をする生き物である」というマルセル・モースの説を考えてみる。
交換の前段階には所有があるはずだ。
所有しているものでなければ、交換することは出来ないからだ。
すると、所有と交換はセットであり、人間の根源的な欲求であると言えるのではないだろうか。
まずはじめに排他的な所有欲求があって、なんらかの物を所有(占有)する。
さらには、その一部を交換することで、他者や他グループとのコミュニケーションを行い、信頼を得たり、健全性を保ったり、勢力を伸ばしたり、維持したりする。
人間、または人類、ホモサピエンスはそのような特性を持った生き物なのである。
さらにいうと、交換をスムーズにさせるものとして、貨幣が生まれている。
そう考えると、貨幣は根源的な欲求を満足させるための、重要なツールであると言えるのではないだろうか。
したがって、貨幣などを使わない共同所有の社会システムは、理論的には出来そうに見えても、人間の根源的な欲求にマッチしないシステムなのではないかと思うのである。
一方で、資本主義はあらゆるものを個人の所有物とし、貨幣を通じて交換可能とする社会システムであることから、環境破壊などの問題をはらみつつではあるが、人間の根源的な欲求にはマッチしているのではないだろうか。