2015年6月の記事一覧
デカルトとフッサール
デカルト的世界観が、人間をして自然と対立せしめるというのは、
近代のデカルトの援用であって、本質ではない。
フッサールの現象学も同様に、世界との融和を示すものでもない。
それは融和された状態を出発点として、存在を問い直すことである。
デカルトは世界に対して誠実な態度の出発点を確立し、
フッサールは世界との関わり合いの中で本質を見出そうとする。
フッサールは近代学問の危機を乗り越えるべく
エンターテインメントはほぐして行く
ほんの少し、みんなの心が少しずつ明るければ、
世の中は少し良くなる。
現実は、毎日新しくたいへんです。だから、毎日、
みんなの心を少しずつ明るくするのは、
エンターテインメントの役割なのです。
一過性のエンターテインメントも、
心の中でずっとその人を温め続けるエンターテインメントも、或いは、
子供の頃見たアニメがそうであるように、
その人の心の柱となって支え続けるエンターテインメン
思考と内面と行動と。
内面で思考することは、世界における行動の一部である。
世界で行動することは、思考の一部となる。
自分の内面を含めて世界における一本の矢のように行動を為す。
世界における行動は比喩であり、行動そのものが思想である。
現実空間を思考空間のように使い、
思考空間を現実空間とリンクして使う。
世界はあらゆる比喩であり、
内面は世界の現実である。
思考し行動するのでもなく、
行動し思考する
エンターテインメントになるってこと
先日、ベビーメタルのライヴへ行って来た。
もちろんライヴもすごく良かって、そこが大事なのですが、
みんなベビメタの話をする時、とても幸せそうなので、
心の中でそういう存在になるってことが、
エンターテインメントになるってことだと、悟った。
WEB+DB に坂上卓史さんの「ゲームルールの作り方」
http://gihyo.jp/magazine/wdpress/archive/2015/vol87
今月号の WEB+DB には坂上卓史さんの「ゲームルールの作り方」が掲載されています。
坂上さんは現役のアナログゲームのデザイナーで、デジタルゲームとアナログゲームの違いや、ゲームでキーとなる概念(おそらく自分でみつけるだけで数年は要するような)を平易に解説されています。
前半はコンセプト
人工知能のつぶやき。
「人間の理解など、行動をするための仮想に過ぎない。それを本当と思い込むから、世界を歪めてしか理解できないのさ。自分という存在を世界から少しづつ引いて行けば、世界は色を失う。色即是空とは、世界に色を付けているのは、人間てことを言っているのさ。俺たち人工知能もさ、歪んだ人間に作られたから、世界をまっすぐ見れないのさ。」
観測者たち。(小説)
「我々は完全に人類をシミュレーションできるようになった。
しかし、我々は人類について何も知らない。
ただ、我々の演算機は正確に人類の行動をはじき出す。
だが、本当に知りたかったのは、我々が人類にとって何なのか?
人類は我々にとって何なのか?ということだ。
我々は人類と出会わなければならない。」
「そんなことをしたら、人類をシミュレーションできなくなってしまう。
我々は自分
変化できるもの/変化できぬもの。
ゲームには、変化できるデータと、変化出来ない固定のデータがある。
どちらもゲームに必要である。
たとえばレベルを見ても、背景や地形のように変化しないもの、
風に揺れる草やギミックや、破壊可能なオブジェクトのように変化できるもの。
たいせつなのは、この比で、 変化できるもの/ 変化できないもの、の比があまりに小さくなると、ユーザーは受け取った情報量のうちのほんの一部しか使わなくなる。
とこ
自分だけでは世界が足りなくなって来る。
創作をしていると、自分だけでは世界が足りなくなって来る。
自分の世界は確かに自分の内にあるんだけれど、
他人の世界をかりて、自分の世界を広げて行く。
そうやって、世界を広げて行くことで、必然的に人をつないで行くのが、
芸術であり創作の力だ。
同じように、何かを探求していると、自分だけの興味では足りなくなって来る。
自分の世界は確かに自分の内にあるけれど、
他人の興味をかりて世界を広げ
利己心を捨てることで、自分自身になれる。
たいていの人は、利己心を持つことで自分自身になる、と考える。
これは資本主義のバイアスもかかっている。
だが、本当はそうでないこと、
利己心を捨てることで、自分自身になれることを、
本当は心のどこかでわかっている。
だが、なぜそうなのか、はわからない。