見出し画像

「1」とは何か?―岡潔【百人百問#019】

昔から数学が好きだった。
小学4年生の頃に「1から100を足すと?」という問題が先生から出された時に、必死にひとつずつ足していった。まだすべてが足し終わらない時に、時間は終了。そこで先生が示したのは数学者ガウスの逸話だった。

ガウスは「1から100」を一列に並べ、その下に「100から1」を並べる。そして、上下の数を足す。

1、2、3、・・・97、98、99、100
            +
100、99、98、97・・・3、2,1

すると、「1+100」「2+99」「3+98」となり、すべて「101」になる。この足して101になるペアが100個できるわけなので、合計は101×100=10100となる。これはペアの和なので、「1から100」の合計はその半分の「5050」となる。等差数列の和である。

とてもシンプルでありながら、やれと言われても思いつかない。これをガウスは小学生頃に思いついたという逸話だった。それが実際のエピソードかはわからないが、同じ小学生がここまで頭の使い方が違うのかと衝撃を受けたことを覚えている。

そこから数学にハマっていった。シンプルな問いに対して、紙とペンだけで立ち向かうことができ、いつか「正解」にたどり着く。そのゲームのようなプロセスにアドレナリンが出ていたのだと思う。

畑村洋太郎の『直感でわかる数学』で無限の不思議に触れ、『素数の音楽』でリーマン予想が描く地平線を妄想し、『フェルマーの最終定理』でフェルマーが残した余白に震えた。

数は不思議だ。
たとえば、1/3が0.3333...なのは誰でも知っている。では両者を3倍すると、1=0.9999...となる。あれ、どういうことだろう。突然「1」がわからなくなっていく。ここから無限や収束が気になってくる。

数学はロジカルな学問だ。それは誰でも知っている。しかしながら、数学を追求する人々はとても泥臭い。寝る間も惜しんで考え続けたり、人間臭いこだわりで真理を探求する。

プロセスと結論を美しくロジカルに構築するために、人は泥臭く粘り強く人間臭く数に対峙する。たとえば、数の矛盾をなくすために無限という概念を生み出し、「解なし」を無くすために虚数を導入するのだ。この概念構築のあくなき探究こそ数学の面白さなのだ。

独立研究者の森田真生は『数学する身体』で、アラン・チューリングと岡潔を追いかけた。二人とも「心」を究明した人物だった。チューリングは「心をつくる」ことで心の究明へ向かったが、岡潔は「心になる」ことで心をわかろうとしたという。

チューリングは数学を道具として心の探究に向かい、岡潔は心の世界の奥深くへと分け入る行為そのものを数学に委ねた。二人の対比の中で、森田自身は明らかに岡潔に惹かれている。

道元にとっての禅、芭蕉にとっての俳諧のように、岡潔にとって数学が道そのものだったと森田は書いている。岡潔の身体そのものが数学であり、道であり、森田が憧れる「数学する身体」だった。

岡潔は1901年生まれで、小林秀雄と同年代で、湯川秀樹や朝永振一郎に講義をしていた数学者である。いまの日本の教育では数学者のことを知る機会はなかなかないが、世界の数学界に大きな功績を残した人物である。

詳しいことはぼくもわからないが、岡は「多変数解析関数論」を研究し、その中で「不定域イデアル」というアイデアを生み出した。その概念は、のちに「層」というコンセプトになり、現代数学の新分野が開拓されたという。

代数幾何学や超関数論や素粒子論の最先端などで、なくてはならない重要な道具として利用されている。

そんな岡潔は「情緒」を重視した。
近代数学には「情緒が足りない」、いまの日本にも「情緒が足りない」というのが岡の口癖だった。この情緒とはどういうものなのだろうと、岡潔と小林秀雄の対談『人間の建設』を読んでみると、こんな対話があった。

小林:子供が一というのを知るのはいつとかと書いておられましたね。

:自然数の一を知るのは大体生後十八ヵ月と言ってよいと思います。それまで無意味に笑っていたのが、それを境にしてにこにこ笑うようになる。つまり肉体の振動ではなくなるのですね。そういう時期がある。そこで一という数学的な観念と思われているものを体得する。生後十八ヵ月前後に全身的な運動をいろいろとやりまして、一時は一つのことしかやらんという規則を厳重に守る。その時期に一というのがわかると見ています。一という意味は所詮わからないのですが。
岡潔・小林秀雄『人間の建設』(新潮文庫)
Kindle の位置No.1191-1201

生後18ヶ月くらいで、子どもは「1」を知る。それは身体の運動とともに直観的に体得する、というのが岡の「1」なのである。二人の対話はこう続く。

小林:なるほど。おもしろいことだな。

:私がいま立ちあがりますね。そうすると全身四百幾らの筋肉がとっさに統一的に働くのです。そういうのが一というものです。一つのまとまった全体というような意味になりますね。だから一のなかでやっているのかと言われる意味はよくわかります。
同上、Kindle の位置No.1206-1208

なんだか禅問答のように「1」がわかったり、わからなかったりしてきそうだが、これが岡潔の「1」なのだ。ここから話は情緒に移っていく。

赤ん坊にはまだ時間というものはない。だから、そうして抱かれている有様は、自他の別なく、時間というものがないから、これが本当ののどかというものだ。
(中略)
それは何かというと、情緒なのです。だから時間、空間が最初にあるというキリスト教などの説明の仕方ではわかりませんが、情緒が最初に育つのです。自他の別もないのに、親子の情というものがあり得る。それが情緒の理想なんです。矛盾でなく、初めにちゃんとあるのです。そういうのを情緒と言っている。私の世界観は、つまり最初に情緒ができるということです。
同上、Kindle の位置No.1251-1261

数の「1」と赤ん坊の身体と情緒を一緒くたに語ろうとするのが岡潔が求めた数学だった。これが何かを「わかる」ことは難しい。岡も「一という意味は所詮わからないのですが」とも言っている。

「1」とは指折り数えることから生まれている。その「1」から始まった数学に魅了され、先達たちが数の体系を生み出したいった。数学はより抽象化し、より高度化し、最初の「1」を見失いながら、前に進んでしまった。

それに対して岡潔は、もう一度「1」に戻ろうとしたのかもしれないし、森田真生はその「身体」を取り戻したいのかもしれない。理性で突き進んできた数学の地平に、再び情緒と身体を見出した二人の探究者の姿がとても凛々しく思える。

岡潔は『春宵十話』の「はしがき」で、数学する自身についてこう書いている。

私は、人には表現法が一つあればよいと思っている。それで、もし何事もなかったならば、私は私の日本的情緒を黙々とフランス語で論文に書き続ける以外、何もしなかったであろう。私は数学なんかをして人類にどういう利益があるのだと問う人に対しては、スミレはただスミレのように咲けばよいのであって、そのことが春の野にどのような影響があろうとなかろうと、スミレのあずかり知らないことだと答えて来た。
岡潔『春宵十話』p.3

「1」とは何か?
スミレが春の野に咲き続けるように、ひたすらに数学に情緒を求め続けた岡潔の探究の背中を心に留め、自分にとっての「1」を求め続けていきたいと強く思う。


いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集