近年の職場のメンタルヘルス対策を巡る動向の整理~安全配慮義務から労働力確保へ~
はじめに
今回は、ここ数年で顕著になってきた職場のメンタルヘルス対策の動向について整理して解説したいと思います。
日本における職場のメンタルヘルス対策のモチベーションは安全配慮義務
これまで日本における職場のメンタルヘルス対策は主に安全配慮義務対策を中心に行われてきたと言っても過言ではありません。安全配慮義務とは、労働契約法により事業者が負っている労働者の安全に配慮する義務のことです。この安全には労働者の心身の健康も含まれると解されています。
たとえば、事業者が労働時間制限を守らずに労働者を長時間労働させた結果、労働者が過労によって精神障害や脳血管系疾患を発症してしまった場合は、事業者はその責任を問われる可能性があるというものです。
この安全配慮義務は、労働者の過労自殺等の 裁判の判例上の法理として確立され、 2008年に成立した労働契約法において法律上の文言として盛り込まれたものです。
これと軌を一にする動きとしては、2011年に厚生労働省による「心理的負荷による精神障害の労災認定基準」の策定も挙げられます。これは、労働基準監督署長が心理的負荷によって労働者が精神障害を発症した事例において労災認定の判断をする際の基準です。この基準によって必ずしも精神保健の専門家ではない労働基準監督署長が精神障害が労災に該当するか否かを判断しやすくやすくなりました。
こうした企業に安全配慮義務を意識させる動きを受けて、特に大企業を中心に労働時間管理の厳格化をはじめとする労務管理の強化に加えて、新入社員向けのセルフケア研修、管理職向けのラインケア研修といった形で職場のメンタルヘルス対策が進められてきました。
その後、2015年12月のストレスチェック制度の義務化により、大企業以外の企業においてもメンタルヘルス対策の必要性の認識が高まりましたが、企業側の意識としてはそれまでの安全配慮義務の遂行の延長だったと言えます。
近年の労働力不足に伴う変化
これまで述べた安全配慮義務重視の意識が少しづつ変わり始めたきっかけはアベノミクスによる景気回復と労働力人口の減少に伴う、労働者の立場の向上です。たとえば、新卒採用市場は空前の売り手市場となっています。たとえば、ここ数年の大学生の就職内定状況を見ると、就職内定率の上昇ペースが年々早くなっていることが分かります。
新卒採用が売り手市場になっていることに加えて近年顕著なのが転職の増加です。転職プラットフォームの増加等も相まって若手労働者のみならず中堅労働者の転職活動も活発化しており、かつての「35歳転職限界説」は過去のものとなり30代後半での転職も今や珍しくありません。
このような動きを受けて、企業の人事部門では人材採用、人材確保が至上命題となっており、自社の待遇面や将来性のPRに加えて、自社の人材引き留めも重要な役割となっています。健康経営優良法人、健康経営銘柄をはじめとする健康経営関連認証の取得もその一環と言えますし、ハラスメント対策や類似のコミュニケーション研修の強化の動きも同じ動きと言えます。近年カスタマーハラスメント対策の機運が高まっていますが、その背景にも対人サービス業界の労働力不足が存在します。
このように、企業において人材確保の動きが強くなるに伴い、これまでの安全配慮義務の遂行が主だった職場のメンタルヘルス対策の目的に人材確保が追加され、近年ではより人材確保のためのメンタルヘルス対策という意識が高まりつつあると言えます。 そのため、ストレスチェックにおいてより組織要因を調査できる80問の新職業性ストレス簡易調査票を採用したり、これまでの57問の職業性ストレス簡易調査票にワーク・エンゲイジメント設問を追加する動きが見られます。
企業はどのように対処すべきか
このような動きを受けて、企業はどのように対処すべきでしょうか?弊社ではこれまで産業医、保健師、あるいは人事部門の安全衛生部門に任されがちであった職場のメンタルヘルス対策に、人材確保の観点から人事部門全体として関わりを強め、予算を増加させることが必要だと考えています。たとえば、ストレスチェックで高ストレスに該当した労働者がその後退職しやすいことが数千人の労働者を追跡した研究により明らかになっています。
Kachi, Y., Inoue, A., Eguchi, H., Kawakami, N., Shimazu, A., & Tsutsumi, A. (2020). Occupational stress and the risk of turnover: a large prospective cohort study of employees in Japan. BMC Public Health, 20, 1-8.
ストレスチェック義務化以降10年近く経ちますが、たとえば東京海上日動メディカルサービスが公表した約20万人から得られた高ストレス者比率は2019年度は14%、2020年度は12.3%、2023年度は14.3%となっており、大きな変化が見られません。
おそらく、個別の企業で見ても、ストレスチェック義務化以降自社の高ストレス者比率が減っていない企業が大半だと思われます。その理由について詳しくは別稿にて考察したいと思いますが、①自社のストレスチェック結果を適切に分析できていない、②結果に応じた効果的なメンタルヘルス対策を実施できていない、が挙げられ、根本的には③ストレスチェック担当部門に必要な人員、予算が投下されていないことが原因と思われます。今後労働力を確保出来るかどうかが企業の競争力を左右することからも、人材確保の観点からも結果を出せるメンタルヘルス対策に移行するために、自社のメンタルヘルス対策を強化することが重要と言えるでしょう。
執筆者紹介
宮中 大介。はたらく人の健康づくりの研究者、株式会社ベターオプションズ代表取締役。「HR・メンタルへルス業界の秋元康」として行動科学とデータサイエンスを活用してHR業界、メンタルヘルス業界の各社の事業をプロデュースしている。大学にてワーク・エンゲイジメント、ウェルビーイングに関する研究教育にも携わっている。MPH(公衆衛生学修士)、慶應義塾大学総合政策学部特任助教、日本カスタマ―ハラスメント対応協会顧問、東京大学大学院医学系研究科(公共健康医学専攻)修了。