映画芸術の中に確かに存在する普遍:『8 1/2』
※注意 この文章を読む際はネタバレ等、核心部分への言及があります。個別に判断したうえで、読んでください
通俗的な苦悩をも魔術にかける
大渋滞のハイウェイのアンダーパス。ほかの車からは不気味な視線が注がれ、車内にも排気ガスが充満している。抜け出すも留まるも地獄という状況において、必死になって車内から抜け出し、気持ちよく空へと羽ばたいたかと思えば、ロープで足をひっぱられ地面へ真っ逆さま。
『8 1/2』の冒頭は、スランプに陥った映画監督、グイド(マルチェロ・マストロヤンニ)の夢からはじまる。次回作の構想がまとまらず、保養地で骨休めをしているグイドの夢は、逃げ道の無さと、先行きの不透明さを象徴的に表現している。
課題から目をそらし、快楽に身をゆだねようとすることを「現実逃避」などという言葉で表現することもあるが、グイドは逃避した結果、現実と幻想の境目があいまいになってしまう。保養地の客に水を配るスタッフさえも、グイドの視点からは、幻想的に見えてしまうのだ。
たしかにフェリーニの映画は芸術や幻想といった言葉で形容されるが、こういった行き詰まりのようなものは、あらゆる創作者、ひいてはあらゆる大人が感じたことがあるはずである。きらびやかな調度品の保養地の雰囲気に観る側も「飲みこまれて」しまうが、実は普遍的な悩みがその根本にある。
芸術映画の監督として、ジャン=リュック・ゴダール、フランソワ・トリュフォーと並び称されることも少なくないフェリーニだが、『気狂いピエロ』で衝動的に日常を捨て、逃避行に出た、ジャン=ポール・ベルモンドとアンナ・カリーナと比較すると、『8 1/2』のグイドはかなり通俗的な悩みである。
むしろそうした通俗的な苦悩をも、豪華絢爛な映画芸術の世界に落とし込んでしまうことこそ、フェリーニの「映像の魔術師」たる由縁かもしれない。
大人は誰もが「元・子供」
過去に出会った女性たちを軸としたグイドの幻想は、子供のころまで遡る。サラギーナという、浜辺の粗末な小屋に住む豊満で知恵おくれの女性に、小銭を渡すと、彼女は妖艶なサンバを踊りだす。そのことが通学する教会学校の教師に露見し、激しく罰せられるという一連の出来事が蘇る。
子供は大人になることは出来ないが、大人は誰もが「元・子供」である。子供のころの記憶はあいまいかつ、整合性を確認することは不可能だ。にもかかわらず、あらゆる表現者(というより、こちらもあらゆる大人)は、そうした過去の記憶と分離不可能な存在にあり、公私にわたって影を落とし続ける。このことも壮大な映画芸術の中にある、誰もが共感できる部分であるはずだ。
女性、浜辺、教会は、いずれもフェリーニの他の作品にも通じるアイテムである。『道』は浜辺の情景で映画が始まり、『甘い生活』は反対に浜辺の情景で幕をおろす。
フェリーニによれば、浜辺に住むサラギーナという女性は、フェリーニの子供時代に実在したという。母親、正妻、愛人といった女性たちとのいびつな記憶や交流のルーツはサラギーナにあると、フェリーニの分身であるグイドが映画の中で表現し、そうしたいびつなトラウマと自らの関係を華々しくスクリーンに投影している。
「なーんちゃって」で終わりたい
映画も終盤になると、グイドの幻想もエスカレートしていく。気心知れた女性たちを侍らせ、ハーレムのような幻想を抱いたかと思えば、気に入らない人間を首吊りさせたり、自らも追い詰められて死の世界へ誘惑されるイメージが渦巻いていく。
原始的で利己的で、言ってみればみっともない。およそ模範的とはいえない姿だが、人間の内面なんてそんなもんである。いい格好をせず弱い部分をむき出しにし、それをも芸術にしてしまうのだ。
追い詰められたグイドが次回作の作成を断念し、かくして、実は通俗的で誰もが持っている人間的な苦難を芸術にした映画は、登場人物が全員で踊るというエンディングで幕をおろす。
『8 1/2』で描かれた全てを「なーんちゃって」といわんばかりに、壮大でゴージャスな方法はそのままに全否定していく。人間どんなにいいことがあっても、悪いことがあっても、行動したことを全て否定して、「なーんちゃって」では終われない。面倒くさくて長く果てしない毎日が横たわっている。しかし映画ならそれが出来てしまう。人間くさい、むき出しの欲望でも映画なら「終わらせる」ことができてしまうというのを、ずばり「映画監督の映画で」作ってしまったのだ。
参考文献:
ジョン・バグスター 椋田直子=訳「フェリーニ」 平凡社1996年
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