おじいの地図
地図が好きだ。眺めていると瞬く間に時間が過ぎてしまう。
訪れたことのある場所は、当時と比べてどうなっているだろうと想像し、あのとき会った人々は元気ですごしているかと思いを巡らす。まだ訪れていない場所は、いつか必ず行ってあれをしよう、これを見ようと思い描く。
街を流れる川の源流を探し、鉄道や道路はどこまで伸びるのか辿り、区画が碁盤の目のような街は新しいのだろうかとか、ここはきっと昔は源左衛門さんの田んぼだったんだろうなあ……なんて。
思えば子供の頃からそうだった。
小学生の頃は、まだGoogle Mapのようなオンライン地図は無かったので、父が持っていた日本の広域道路地図に、これまた父のペン立てから拝借した赤と黄色のダーマトグラフを駆使して、乗ったことのある路線、通ったことのある道路、行ってみたい場所、家族旅行で行った観光地、遠くの親戚や、引っ越してしまった友達の家……などなど、片っ端から印をつけていた。そして、赤と黄色でベタベタになったそれを眺めて、ワクワクニヤニヤしていたのだ。
そうやって楽しんでいたおかげかどうかわからないが、私は、地理はかなり得意な科目だった。けれど、母にも妹にも、残念ながらこの楽しさはあまり共感してもらえなかったし、父は実際に地図を使う時に、見辛くてしょうがないと、別に新しいものを買ってしまった。落書きだらけの道路地図は私専用になった。
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三十年も前の思い出。中学を卒業した春休み、宮古島に住む私の母方の祖父母の家に、東京から同級生のカオリちゃんと2人で、遊びに行った時のこと。
私のおじいは、穏やかで優しくて、私欲のない献身的な人物だったらしい。戦後の苦しい時期、私財を投じて、集落の人達が働ける場所を作るため事業を興したり。学校関係でも様々に尽力していたそうだ。島の空港ではタクシーの運転手さんにおじいの名前を言えばみな「ああ!」って家まで連れていってくれるよと言われていた。ただ、欲がなさすぎたのか、儲けることができず、騙され、お金や土地がいつのまにか無くなってしまうのだそう。でも、私の両親は言わずもがな、おじもおばも、いとこたちも、もっと遠い血の繋がりがあるかどうかわからない親戚たちも「おじいは素晴らしい人だ、あの人を悪く言う人は見たことがない」皆口を揃えた。身内が言うのも何だが、本当に誰もが、おじいを慕い、尊敬していた。
勝ち気でちょっとわがままで、しょっちゅう勝手をしていたおばあも、おじいが亡くなって何年も経った後「おばあはねー、あの、おじいのことが大好きだったんですよ」と懐かしそうに言っていた。
めったに会うことは出来ないけど、私も、優しくて、孫たちを沢山褒めてくれるおじいが大好きだった。
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宮古島に住むおじいとあばあは、カオリちゃんとはもちろん初対面だ。
おばあがご飯を作ってくれているあいだ、私たちとおしゃべりをしていたおじいは、ふと、引き出しから使い込まれた地図を取り出して広げるとカオリちゃんに「カオリちゃんのおうちはどこね?」と尋ねた。地図は東京の地図で、私の家のある場所には既に印がついていた。
エンピツでカオリちゃんが印をつけた場所に「カオリちゃんの家」と書き込んだおじいは、しばらく地図を眺め、私たちが卒業した中学校や小学校、さらには進学する高校の場所や様子もききながら、その場所にもまた印をつつけた。そして「きっと、良いところだね」とニコニコしていた。
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後で、カオリちゃんが「おじいちゃん、うちに来るのかな?」と愉快そうに笑っていたので「流石に、それは無いと思うけど」と言ったのだけれど、私は心のなかでは「おじいは想像の力で、何度も遊びに来るんだろうな」と思っていた。
東京から遠く離れた沖縄の、さらに遠い島に住んでいるおじい。
見渡す限りさとうきび畑に囲まれた古い小さな家で、簡単には行けない遠い土地の様々な場所の様子を聞いて、ニコニコと地図に印をつけている。
きっと何度も眺めては、あれこれ想像を膨らませ、その土地や人に思いを馳せていたのではないだろうか。大好きなおじいが、私と同じことをして心を踊らせていたなんて。
おじいはこの時会ったのを最期に、私が高校生の間に亡くなってしまった。
実際に、おじいが、東京の私の家を訪れることが出来たのは、覚えている限り一度しかない。けれど、おじいの思いは何時も何度も遊びに来てくれていたに違いないと、地図を眺めるたび私は思うのだ。
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