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牡丹華



「唐沢くん!」


軽やかな声がする。
振り返った先、コツコツとヒールの音を響かせ花柄のワンピースの裾を翻しながら走る小さな人影を見つけ、足を止める。

徐々に減速し、軽く息を整えながらこちらに向かってくるその姿に性懲りもなく胸が弾む。


「斉藤さん、どうしたの?」

「あの、これ。引き継ぎの資料で渡しそびれてたのがあって…」


そういって差し出された水色の分厚いファイルを受け取ると、ずしりとした重み。
パラパラと中をめくると綺麗にファイリングされた資料と、そこに書き込まれた丁寧な文字が目につく。


「ありがとう。後で目通しとく。」

「唐沢くんならすぐ把握しちゃうと思うけど、一応分かりづらいものには付箋はってあって…」


ファイルを開き覗き込みながら説明する彼女からふわり、と爽やかな香りが漂う。

彼女のものとしては馴染みのない、でもどこか覚えがあるようなそれ。


「唐沢くん?」

「え?あ、ごめん。」

「どうしたの?」

「いや…斎藤さん、香水変えた?」

「あ!わかる!?新しいの買ったから試しにつけてみたの。」


はにかむように微笑み、髪を耳にかける彼女の細い指がキラリと輝く。
瞬間、パズルのピースがカチッとはまったような、あるいは名前も知らないあの視力検査の機械で見るぼやけた映像にきゅっとピントがあうような…とにかく、そんな感覚が体を貫いた。


「…いい香りだね。」

「ほんと?ありがとう。」


先程まで弾んでいた胸はきゅぅっと音を立てて縮こまっている。
体はなんとも正直だ。


「あ、引き止めてごめん!このあと会議なんだよね?」

「まだ時間あるから大丈夫。」

「よかった!頑張ってね!」

「ありがと。」



それじゃ、と踵を返す彼女の後ろ姿を見送る。






あと少しだけ、もう少し…







結局彼女が突き当たりを曲がる直前まで見送り、視線が合わないよう慌てて前を向いた。

何にも行動に移せなかった自分の不甲斐なさへの苛立ちとやるせなさを溜息として吐き出して歩き出す。
1つめの角を左に曲がり辿り着いたエレベーターホールにはスラリとした人影が。


「お疲れ様です。」

「お疲れ様ー。」

無地の白シャツに無地の黒パンツ、それに合うシンプルなアクセサリーを身に着けたその人は、エレベーター上部のインジケータをぼんやり見上げている。
上層階にいるエレベーターが降りてまた上がってくるまで、まだ時間がかかりそうだ。


「このエレベーター、長いよね。」


不意に声をかけられた。
視線はそのまま、肩で切り揃えられた黒髪をがさらさらと揺れて端正な横顔が顕になっている。
背筋が伸びていて立ち姿が綺麗なこの人は、ただ上を見ているだけで画になるなぁと思いながら相槌をうつ。


「ですね。」

「唐沢くん、何階?」

「12階です。深見さんは?」

「15階。」

「社食ですか?」

「そう。外雨降ってるから中で食べちゃおうかなって。」


雨はそれほどといった感じだが、風が強いのか木々が大きく揺れているのを窓越しに眺める。
ふと窓の手前、エレベーターホールの隅に置かれた小さなテーブルに花が飾ってあるのが目についた。

濃淡の違う様々なピンクや白色の花弁を幾重にも重ね、優雅に豪華に咲いている。


「深見さん…」

「ん?」

「あの花なんてやつでしたっけ?」


花?と呟いたあと、僕の視線の先に気づいたのかあぁ…と独りごちた。


「牡丹だよ。」

「牡丹?牡丹ってあんな感じなんだ…」

「綺麗だよねー。でも、牡丹が咲いたってことは春はもう終わりなんだよ。」

「へぇ…そういうの詳しいんですね。意外。」

「意外?」

「あ、失言しました。」

「わざわざ言うな!」


軽口の応酬が心地よい。

数年前、部署移動するまで直属の先輩だった深見さんとは新入社員の頃からの付き合いでよく飲みにも連れて行ってもらった。
いろんな話をしたし、情けない姿も散々見られてきたせいもあってか、他の先輩たちより気兼ねなく話せる。

久しぶりに会っても変わらないその空気感が今は非常に心に沁みた。



春は終わり。

なるほど。

今の僕にはぴったりの花かもしれない。



ポーン、と軽い音がホールに響き、無人のエレベーターに乗り込む。
狭い空間はエレベーター独特の匂いがした。

「深見さんって香水とかつけないんですか?」

「あー、つけないね。なんかご飯食べてるとき、他の香りしてると集中できなくない?」

「理由それですか?」

「大事だよ!」

らしい理由に笑いがこみ上げる。
至って真面目に味噌の匂いやお米の匂いの素晴らしさを力説している彼女の話を聞いていると、静かにエレベーターが止まり扉が開いた。

「あ、じゃあお先に。」

「うん!会議頑張って!」





数分前に同じ言葉を貰ったときとは明らかに違う心。




「深見さん。」

「ん?」

「深見さんって落ち着きますよね。」

「えぇ?なにそれ。」



開ボタンを押しながら手を振る深見さんの綻ぶような笑顔を一瞥し、手を振り返した。








穀雨

牡丹華(ぼたんはなさく)
豪華で品のある牡丹が大きな花を咲かせる頃。

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