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魚上氷
「変わんないな」
サク、という小気味いい音に続いて後ろから声がする。
そのままこちらに向かってくる音から逃げるよう、立てた膝に顔を伏せて交差した腕で囲う。
そんな私にお構いなしに音は近づき、隣でピタリと止まった。
「風邪引くぞ」
「………」
「…ちょっとは大人になったかと思えば…」
「………」
話しかけないでほしい。
下を向いているせいで鼻水はとまらないし、昼間だというのに薄く氷の張った川のほとりに吹く風は袖にできた染みをどんどん冷たくしていく。
そんなお決まりの、使い古された言葉を言うためにここに来たのだろうか。だとしたら、とんだ暇人だ。
「帰るぞ」
「………」
「…なぁ」
「……ほっといて…」
「放っといて欲しいなら見つかんないとこに行けよ」
正論にぐうの音も出ない。
けれど咄嗟に家を飛び出して、気づいた時にはここにいたのだ。
そもそもそんな事を言うのなら探しになんて来なければいいのに。
違う。
分かってる。
気づいている。
追いかけてきてくれるんじゃないか。
もしかしたらこの場所を覚えていてくれるんじゃないか。
もしここで見つけてもらえたらまだ自分には可能性があるんじゃないか。
心の奥底にいる浅ましい自分がそう叫んでいるのだ。
「おばさん、心配してるぞ」
「………」
「…ったく」
短いため息が聞こえたかと思えば、グッと両腕を掴まれて、急に視界が明るくなった。
のぞき込んでくるのは見たくて、見たくなかった顔。
「ぶさいく。」
「離して!」
「いい加減にしろって。」
「やだ!触んないで!嘘つき!」
流れるように出た言葉に思わず口をつぐんだ。
恐る恐る顔を上げると、先程までと違って何も言わずにこちらを見つめる静かな瞳とぶつかる。
あぁ、だから黙っていたのに…
一度口に出してしまえばもう止まらない。
「嘘つき…」
「……嘘?」
「東京で待ってる、って言ったじゃん」
「……」
「イギリスなんて、そんな遠いとこ…」
「…ごめん」
嗚呼。
そんな言葉が聞きたいわけじゃないのに。
謝ってほしいわけじゃないのに。
ただ駄々をこねているだけだ。
今いる場所を飛び出して、自分の夢を自分の力で追いかけていく。
そんな彼が今の私にはとても大人で眩しくて遠い。
彼の隣に立ちたくて、少しでも大人になりたくて必死に背伸びをしていたけれど中身はてんで子供のままの自分にほとほと嫌気が差す。
思いっきり鼻をすすり、息を吐く。
両手を握られているせいで涙を拭うことはできない。ひどい顔だろうが仕方ない。
一言。
頑張って、と。
それが今私にできる精一杯の背伸び。
大きく息を吸ったその時。
「でも、嘘じゃない。」
「……え?」
「ちょっと長く待たせちゃうかもしれないけど…」
両手が自由になる。考え込んでいる私の代わりに、大きな手がやや乱暴に頬を拭う。
「大学、受かったんだろ?」
「うん…」
「じゃあ、これ。」
そういってポケットから取り出した何かを私の手の平に握らせる。ヒヤリ、と冷たくて固い感触。
「…鍵?」
「そ。俺がいない間、ここで待ってて。」
視線を再度落とす。
見慣れた自宅の鍵とは違うそれには私が好きなマスコットのストラップ。
「おばさんにその話しようと思って行ったのに、飛び出していくおこちゃまがいるからさ」
「……」
「聞いてる?」
「…だって……こんな…」
上手く言葉にできない。
せっかく拭ってもらった頬がまた冷たくなって、ちゃんと顔を見たいのに視界はぼやける。
ただ握りしめた鍵の冷たさだけが私を現実に引き止めてくれる。
「待っててくれる?」
「…し、かたないな…」
しゃくり上げながらの返事は彼にちゃんと届いただろうか。
恐る恐る顔を上げれば、大好きな笑顔がそこにあった。
立春
魚上氷(うおこおりをいずる)
凍っていた川や湖の水が溶け、その薄氷の下から魚たちが飛び跳ねる頃。