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“運命がいたずらするなら 遊んであげなきゃ仕様がないでしょ”
「運命は性格の中にある」と言ったのは芥川龍之介だった。そういう運命だからそういう性格になったのではなく、そういう性格だからそういう運命になったのだ、と。わかるようなわからないような言葉である。
子どもを産んでから、自分がこれまで見て見ぬふりをしてきた事柄をあらためて突きつけられることが増えた。自分の肉体に関する違和とか、実父に対する10年単位で溜め込んだ怒りとか、母性と面倒見の有無についてとか。
いちばん書きやすいのが最後の話題なのでそれだけ書くが(残りのふたつは語りたくなるときがきたら)、母性というものがほんとうにあるのだとしたら、わたしのそれは10段階中4くらいだな、と子どもを産んでみて思った。くり返すが、「産んで」ブーストがかかったうえで4なので、いないときはそれこそ1から2くらいだったと思う。
それによって、自分が他者や動物の面倒を見るのがほんとうに好きではないことをはっきりと思い知らされた。思い返せば、ずっとそうだった。だれかの子どもやペットを、かわいいとは思うけども長時間相手にすることができず、内心戸惑っていた。でも、見て見ぬふりをしていた。だってそんなの、薄情な人間みたいでいやだったから。
自分の子は、もちろん他人の子よりは愛おしいし構えるし話しかけもするし戸惑いはしないけれども、子ども好きの人のように、何時間も飽かず抱いて眺めて話しかけたりすることがどうにもできない。仮に子どもが機嫌よく起きていても、本を読んだり動画を観たりゲームをしたりスマホで調べものをしたりしていることがしょっちゅうだ。子ども好きの人が言う、「こうして赤ちゃんを見てると時を忘れるわ」「何時間でも見ていられる」などの発言に共感することができず、そう言われるたびに後ろめたくなる。母親なのに、女なのに、自分の子どもに対してそういうふうに手放しに思えない自分が、なにか人として大事な部分が欠如しているように思えていたたまれなくなる。
しかしまあ、わたしの大事な友達がいまのわたしと同じことを言ったらどう返すかといえば、「四六時中一緒にいて毎日毎日世話しなければいけない母親という立場の人と、たまに会ってイベント的に構って帰ればいいだけの人じゃ対応の仕方も心持ちも違って当然だよ。だいたい、赤ちゃんは1日放っておいただけで死んじゃうんだから。いまこの子が生きてるってことは、あなたが毎日きちんとお世話してるってことよ。母性があるとかないとか関係ない。ちゃんとやれてるってことだよ」。……コレである。わたしは大事な人に甘く自分に厳しい傾向にあるため、自分を追い詰めがちなときはこんなふうに、「いまの自分と同じことを、自分の大事な人が言ったらどう思うか?」と考えると楽になることが多い。そういう迂回を経て初めて、わたしは自分にこうした励ましの言葉を言ってやることができる。そういった面では、やや難儀な性格なのである。
わたしは、自分に対してなるべく客観性を持ちたいと思っている。忖度や恣意的な部分をできるかぎり排除して、自分の能力や特徴を冷静に評価したい。自分のことは好きだ(と言えるようにはなった。実態はさておき)けども、だから全肯定できるかというと、そこはやはり別ものなのだった。自分を過大評価できる性格だったら、わたしはいまここにいないかもしれないし、夫にも子どもにも会えていなかったかもしれない。その巡り合わせを運命と呼ぶなら、確かに運命は性格の中にある。
最後に余談を。タイトルに引用したのは、IVEの『ATTITUDE』のサビ前の一節である。わたしはウォニョンペンだが、この曲の作詞をウォニョンがしたと知ったときには歓喜した。彼女は天才なうえに努力も怠らないたぐいの人間で、天才でもないし努力も中途半端なわたしからすると天上人なのだが、その彼女が書いた歌詞は徹頭徹尾最高だった。特に最高なのが引用部分である。わたしはここまでの余裕はまだ持てそうにないけども、口先だけでもそう言えるように、これから鍛えていければと思う。