東京オリンピックはLegacyでありExperience #トレーナーレポート【前編】
閉幕から少し時間が経ちましたが、東京オリンピックが終わりました。
はじめに断わり書きをしておくと、様々な状況、立場、想いの方々がいるのでここでは東京2020の開催是非について述べることはもちろん致しません。感染拡大が叫ばれる中で、中止や開催反対の意見を述べる方がいらっしゃるのもわかっていますし、ごもっともな意見だなと思っています。
もし、自分の身近な家族や仲間に感染で苦しんでいる人がいたらこのnoteを書くこと自体、躊躇ったかもしれません。はたまた、トレーナーとして東京オリンピックに参加すること自体を迷ったかも・・・
僕が今の仕事の根拠資格としている柔道整復師は医療職なので、今回の新型コロナウイルスに関して様々なことがありました。治療院の経営とかそういったレイヤーの話ではなく、もっとシリアスなこと。詳しくは書けませんが、世の中に及ぼす影響の大きさは自分の経験も含めて重々理解しているつもりです。
(あくまで理解している”つもり”なので、不十分かもしれませんが・・・)
その上で、”コロナ禍”という特殊な環境で”オリンピック”というこれまた特殊な大会に関われた事(Experience)をちゃんと残していくことは、自分たちにとっての責任であり、今後の財産(Legacy)にもなるだろうなと思っています。
こういう状況なので、正直なところ発信そのものをすべきかどうか迷っていましたが、尊敬する先輩トレーナー方がしっかり発信されているのを見て、僕もnoteに書き残していこうと思い書き始めました。
長くなると思いますが、ゆるゆるとお付き合いいただければ嬉しいです。
オリンピックの記憶
みなさんにとってオリンピックの記憶というのは何時頃でしょうか?僕は決して小さい頃から活発なスポーツ少年だったわけではないので、中学生になって部活動を始めた頃に見たアトランタオリンピックが記憶に残っている最も古いオリンピックです。
しかも、記憶に残っているのものといえば、競技のことよりもマラソンに出ていた谷口浩美選手が編み出した(とテレビでは報道されてていたような・・)ぶらり走法がやたらと記憶に残っていて、中学生ながら「そうか、こうやると楽に走れるんだ!」と真似した記憶があります。
下り坂では腕をブラリと脱力させて力を使わなければ力がセーブできる!みたいなこと言ってたような・・・やばい、記憶が曖昧ですね😅
当時はテレビの先の遠い世界に見えていましたし、出たいとか憧れるという思いはあまりなく、ただただ目の前の部活動のことに一生懸命でした。我ながら熱心な中学生でしたね(笑)
当時の思い出はこちら↓
オリンピックが東京で開催される!
ご縁がないと思っていたオリンピックであっても、人との出会いや自分が選んだ人生の様々な選択肢の中で急に近づいたりするものです。大学時代には周りに、たくさんのオリンピック選手がいたので、決して遠い世界の話ではなくなっていました。
そして大学を卒業して6年後に、柔道整復師の資格をとりましたが、そんな折にこのニュース↓
開催決定の一報が流れた時、ちょうどインターハイのトレーナーステーションにいました。今回共に活動したトレーナーの方々もその場にいたので、一緒になって大興奮!トレーナーにとっても自国開催のオリンピックは大ニュースですし、少し落ち着いてからみんなで頑張ろうという想いを胸に刻んでいました。
とはいえ、僕はトレーナーを生業にしたのが遅かったですし、大学の先輩、同期、後輩など同じ業界で活躍する方々が多い中で明らかに足りていないものが多すぎて、そこからの7年間をどう過ごすかが本当に大事だなとすぐに悟りました。
色々な勉強会にも行き、現場があれば休日返上で向かいました。勤めていた当時の治療院ではコテンパンに叱られることもあったけど、足りない技術、知識、経験を埋めるために、必死になってやってきた事は胸を張っていえます。
治療院の先輩は朝早くからテーピングや包帯の練習に付き合ってくれました。コーレス骨折の患者さんを最初から最後まで一人で任せてもらった時、治療を終えて笑顔で帰られた時に姿は今でも忘れられません。整骨院では珍しく整復する機会もあったので、はまった瞬間に患者さんが安堵の表情を見せると、柔道整復師としてのやりがいをすごく感じました。もちろん、めちゃくちゃ怒られたこともありましたよ。骨折の患者さんの固定を真逆にしてしまった大失敗したときとか(苦笑)。
三十路をすぎた治療家1年生だったので、言動に無意識的なプライドがあったと思います。今となっては時効ですかね(時効であってほしい)
上司を悩ませたり、失礼なこと言っちゃってたと思います。世の中の整骨院が抱える課題ももちろんありましたが、どこで学ぶかよりも、与えられた学ぶ場でどういう風に自分が過ごすかが大事だと思ってます。まぁ、濃かった(笑)
当時の職場のスタッフ
まさか、こんな状況でオリンピックが一年延期し、無観客という特殊な環境で開催されるとは夢にも思っていませんでしたが、きっとこの先振り返ると何か意味があるんだと思います。
オリンピックはキラキラと輝くレース本番だけでなく、その瞬間に至るまでの様々な歩みが全て繋がった先にあるものでしょう。選手と比べるものでもなく、選手のそれは自分が想像できないほど様々なものが詰まっているのは重々承知してますが、自分にとってもやっぱり特別なものでした。
東京2020が延期された時
予想はしていて、覚悟もしていましたが、やはり避けられなかった事態。説明不要だと思いますが、備忘録なので、その時のことも書いておこうと思います。
振り返ればオリンピックは苦難の歴史をこれまでも歩んできてます。
◉第一次世界大戦のために中止になったベルリンオリンピック(1916年)
◉スペイン風邪の流行直後に行われたアントワープオリンピック(1920年)
◉テロリストの標的にされたミュンヘンオリンピック(1972年)
◉東西冷戦の最中で西側諸国のボイコットが相次いだモスクワオリンピック(1980年)
選手の身体的&精神的負担は大きかったでしょうし、1年ずれた事によって競技成績はだいぶ変わった可能性があります。1年という期間はそれほど人も環境も変えるに足る時間ですからね。
僕自身もこの1年で働く状況が変わりました。昨年は治療院をスタートさせたばかりということもあり、ある意味長期間抜けることが可能な状況。オリンピックというこの先経験できないであろうイベントなので、10日間フル参加の心づもりでいましたが、今回はそうはいかず部分的な参加(3日間)となり、トレーナーのシフトに迷惑をかけてしまったと思います。イレギュラーパターンでしたからね。
1年という期間で治療院の「システム化」ができなかった自分の力不足。それでも僕が不在にした期間、治療院を守ってくれたスタッフには本当に感謝の言葉しかありません。逆に、一緒に働いてくれるスタッフにはできるだけやりたい活動をやらせてあげたいし、縛られない働き方を作っていきたいと思ってます。
治療院としての体力もしっかりつけなきゃね・・・
つづく