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私はあの経験を越えてきたんだから。

昨夜、通話セッションは神回だった。

内側の変化って、私の場合はグラデーションのように変わっていくから、ふと振り返ったときに「あれ、変わってた」と気付く。
しかし一人で振り返っても、この変化が当たり前になっていたりするから気付けないこともある。忘れていることもある。

それが、昨夜の通話セッション。
二人でこれまでを振り返ったとき、お互いが大きく変化してることに気付けて本当に嬉しかったし、楽しかった。


私はとある経験によって、自分の中に隠れていた【執着】というものが激しく湧き上がり、吹き出し、大噴火していた。
当時は本当に苦しくて、辛くて、もしかしたら赤ちゃん時代よりも泣いていたんじゃないか・・・という位、泣いていた。

本当に死ぬ思いだったし、なんでこんなことになったんだと思っていた。

けれど。
当時と同様の感情にはもうなれないし、全てを憶い出せないし、出来事自体はすっかり過去になっている。

今やもう、懐かしい。という感覚。
二度と経験したくはないけれど、もう経験できないのかもしれない、という寂しさもある。

なんとも不思議な感情を抱いてる。



私の中の何かに対する【執着】が完全に消えたわけではない。
手放せないモノはあるし、どうしても現実にしたいモノもある。

だけどね。
あの時の私と、今の私は全然違う。

あの時は常時、発する/放出する/送る/投げる/反発するなど、「お前が受け取れ」みたいな姿勢だった。

今は、一旦受け止める/一旦置いておく、のような受け容れる姿勢が取れるようになったし、スルーすることも、良い意味で上っ面な対応もできるようになった。
もちろん、打ち返すことも、受け止めないこともできる。


あの経験によって私は、自分の器が格段に拡がったのだと思う。
器が拡がった・・・というと、何でもかんでも受け容れるみたいな解釈になりそうだけど、そうじゃない。

嫌なものは嫌だと反応できるし、無理なものは無理だと思える。
全ての人を受け容れるとか、全ての概念を受け容れるのではなく、自分の感情や感覚に素直になれている。

自分自身を受け容れる器が拡がった、ということだろうか。

とは言え自分に対するネガティブな感情はまだあって、書き出してみると他人軸/他責思考はまだあるけれど。
例えば、自分の存在価値を信じたいから証明が欲しいとかね。
まだ、自分という存在価値をある側面からは認められてなかったりする。

元々、自信が無い人間で、存在価値・自己肯定感ゼロ人間だったから、『自分を愛せるようになってきた』『自分に素直になれてきた』というのは私にとっては大成長なんだ。


自分を取り戻すために、必然の出会いと別れのような出来事があった。
自己受容の器を拡げるための経験を乗り越えた。
ある側面では悟りのような境地に至れることができるのも、あの出来事のおかげ。

誰もが出来るような経験じゃない。
きっと。
だから共有出来る人は本当に僅かなのだけど。

『あれを乗り越えたんだから自信を持って良い』
という言葉がとても印象的だ。


目の前を見ると、現実を見ると、何も変わっていないような気になってしまうけど、内側は、認識は、意識は確実に大きく変わっている。

自覚があまりなかった。
グラデーションのような変化だから。
青だったのが、いつの間に赤になってるみたいな。


自信を持って良いんだ。
私は変わったんだ。
そうだよね。

と、思えたことを言いたかっただけ。
本当はこの3行で表現できるのに、ダラダラと書いただけ。


すごいなぁ、と思う。乗り越えた自分自身が。
絶対、無理だ。乗り越えられないと思っていたのに。

いつの間にか過去として受け容れていた。
えー。
私って本当はすごいんだ。
そうよね。
色々と辛いこと、大変なこと、悲しいことはあったけど、なんだかんだで乗り越えてきたものね。

乗り越えちゃうとすっかり過去になって、乗り越えられることが当たり前になってたな。
本当はすごいことなのに。

そういう自覚が足りなかったのかも。
なるほど。。。

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miwa
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