やつあたり(エッセイ)
昨日は怒りのエッセイを投稿した。
しかし、このまま誤解された状態でチャンチャン(?)と終わっても、それはそれで後味が悪い。
まずは自分が、どうなりたいのかをイメージする。
自分は正と負、両方の因子を持っていることを自覚している。
その比率は大体1:9くらい。
そう、負が9なのである。
だから負が全面に出てしまっている、この私を変えなければ、とくに変化もなく、ただ、言い訳だけを並べる人生になるということになってしまう。
それだけは避けたい。
しかし、それは簡単に変えられるものではないと自覚している。
私は刹那主義的な考えに則って、常に刹那的な行動をおこなって、失敗9割、成功1割という比率の人生を歩んできた。
だから、なんだ、と言われたら言われたで、ちょっと悲しい。
自分は正直、結構いい年齢になっている自覚があるが、どうしたら大人らしく振る舞えるか、と、いつも考えている。
私という器が子供っぽく見えるのならば、それはもう他人の視点から私は何も変わらないように見えるだろう。
しかし、他人にわからない自分の内面というものは、いくらでも変えられる。
要は他人に評価されることを重点に置くのではなく、自分で自分を評価することに重点を置くのだ。
そうしたら「結構、自分、変わってきてるんじゃね?」って思えてくるはず。
創作で評価されるための世界では、他人軸を重視しているように思えるが、まだまだペーペーな私は自分軸で評価することが第一歩なのではないか、と思う。
人生80年だとするならば、まだ半分もいっていない私なので、そういう意味では人生の先輩は自分の周りにたくさんいる。
その方たちに関われることを感謝しながら生きてみようと思う私である。
で、私は今回の記事を『やつあたり』というタイトルにしたわけだけど、とくにやつあたり要素はないな。
でも、やつあたりだと言えることは私に、こんな人生を歩ませたやつらへの復讐心が、もやっと、ぼやっと、ある程度の復讐心が自分の根源にあるってこと。
自分の人生を他人のせいにするほど無駄なことはないよ。
自分で選んだ人生だ。
自分の思う通りに思うままに生きよ。
他人軸より自分軸。
それだけだ。