自分の人生を生きる

年末、親に「中小企業■■への転職を考えているんだ」と言ったら大反対された。

親の主張はこうだ。「まだ子供も小さいのに、大企業をやめて、社員●人しかいない■■に行って会社が潰れちゃったらどうするの?■■がどんな会社か知らないけど、今の会社だって色んな仕事があるのだから、色々先輩や上司にも相談してみたら?」

なんで41にもなって転職をすることを反対されなきゃいけないのだろう?
この人たちは私の勤めている会社の(大企業であること以外)何を知っているのだろう?そしてそこで働きながら、自分の人生を生きる難しさを想像したことがあるのだろうか?

もはや親世代(70代)と自分の世代(40代)の価値観の違いの問題。
親の価値観を今から変えようなんて無理なので、悪いけど、親のアドバイスは全無視だ。苦笑

こうやって、親と自分は意見が違っていて良いし、親が正しいとは限らない、と割り切れたのはいつからだったか。

たぶん、29で妻と出会い結婚し、自分にはなかった妻の価値観を学ぶ中で、またその価値観を育ててきた妻の両親と会話する中で、自分の両親を客観視することが出来たのだろうと思う。

自分がいかに「いい学校いい会社入って幸せ」という偏った価値観で育てられたか。それによって「自分がやりたいこと」と向き合わず、また「自分で人生をちゃんと考えて選択する」ということもしてこなかったかを思い知った。

ただ、その後、妻と暮らすようになって、今度は
「仕事ばかり一生懸命やって、家庭や育児を妻に投げっぱなしはNG。(同じ会社に勤めているのだし、育児時間も制度として女性も男性も同じようにとれるのだから)家事育児は、50:50でやるべし。仕事・家事育児に加えて、社会にも何か還元すべし(ボランティアでもなんでも)」
という、新たな(ハードルのめちゃ高い)正解的価値観?生き方?に魅せられて、頑張ってきたけど。自分でも12年間気づかなかったが、それはそれで「自分の人生を生きること」を阻害してきた一つの要因だったように思う。そしてその理想と現実(自分のスキルの低さや社会的理解の無さ)のギャップに苦しみ、私は長い抑うつ状態(と短いハイな期間の繰り返し)に苦しんできた。

「いい学校入っていい会社入れば幸せ」もそう。
「仕事・家事育児・社会の3本柱をもって生きる」もそう。
それはある種誰も反論できない正しさや響きをもっているけど、それを自分がやりたいかは別なんだ、あるいはやるにしたってどの程度感でやるのかを選ぶのは自分なんだ、ということに、ようやく気付いた41歳の冬。。。(遅い!苦笑)

でも家族ってお互いに影響されやすいもの。
親子における親の価値観や子供への接し方、ちょっとした言葉の影響力たるや、親の想像をゆうに超えるものがある。親は全く覚えてなくても、「あの時ママはこう言ったよね」ということを子供はずっと覚えていたりするものだ。(それがポジティブな言葉なら良いけど、ネガティブな言葉だと一生トラウマのように付きまとう)

また夫婦においても、一緒に住んでいると、暮らしのルールやお出かけ先、休みの日の過ごし方、両親や義両親との関係性、部屋の掃除、家を買う買わない、家具のイメージ、家事育児の分担・・・至るところで、話し合ったり、価値観を合わせたり、時に相手に譲ったり譲ってもらったり、すり合わせをしなければならない。その中で「女性活躍」や「SDGs」、「仲良い家族像」といった一見正しい主張をされると、どうしてもこちらに分が悪い。それはおっしゃる通りだと思うけれど、私もそこ目指さなきゃダメですか?なんか居心地悪いんだけど…みたいな

昨年10月から日本仕事百貨さん主催の「文章で生きるゼミ」を受講して、その講師の一人の影山知明さん(クルミドコーヒー店主)のお話で、「現代社会は、人を「~あるべき」という価値観?に当てはめようとするから生きづらいと感じる人が沢山いる。社会でもそう、会社でもそう、家庭でもそう。「子供だから~あるべき」「お兄さんなんだから~あるべき」「いま~の時間だから~あるべき」「友達とは仲良くすべき」「家族とは仲良くすべき」「うちの会社は~あるべき」「もう老人なんだから~あるべき」…
ここに書ききれないあまたの「~あるべき」が世界を支配していて、そこから外れてしまうと、昔の村八分のように「あいつはできない奴だ」「変わった奴だ」とレッテルを貼られる。(特に島社会で単一民族の日本はそういう傾向が強いのかも)

またそういった社会のソフトな考え方の部分だけでなくて、例えば地方においては過疎化が進み、社会インフラを保つことが出来ないから、出来るだけ地方の大都市に集約化して住まわないといけない、とか。そういうのも広くとらえれば一人一人の「こう生きたい」という自由を阻害していると思う。

影山さんは、最新著書「大きなシステムと小さなファンタジー」の中で、「私の『~したい』という思いを、私たちの『~したい」にすると、そこから宇宙が広がる。そうやって小さくても良いから、自分たちのファンタジーを育んでいくのが大事なんだ」というような一節があって。

社会や会社や家庭の中で、自分を殺して生きるのではなく、「~したい」という思いを大切にして、それを周りの人に話してみて、それに共感してくれる人と動き出す、そんなことが出来ると、「自分の人生を生きる人」が増えて幸せになるのかもしれない。(今はSNSで世界と繋がれるから、こうしてSNSで発信するのも同じ価値観の人と繋がれる手段の一つだと思う)

なんで、「~あるべき」という価値観がこんなに世の中には溢れているのだろう?特に日本は…

それは行きつくところ、問題は「教育」にあるのでは?という気がしてくる。

日本での運動会や発表会のようなものは海外では珍しいと聞く。(日本以外で運動会あるのは韓国くらい?)クラスの全員が同じことを同じようにやることが強制されると、どうしても、一人一人の成長スピードや価値観の違いに寄り添うことが出来なくなり、そこで劣等感を感じたり、疎外感を感じて生きづらさが生まれるのだろう。

とはいえ、一人一人が自由すぎても社会の中で調和や秩序が保たれず、何かそれはそれで住みにくい社会があるような気がする。(最近読んだWEB記事では、教育大国フィンランドが日本の教育を絶賛していた。社会の中で調和した生き方が出来る人間教育(笑)と。確かに震災の後の食料を並ぶ日本人とか、サッカー観戦後の掃除する日本人とか世界で絶賛されるもんな。)

まぁだからバランスなんだろうな~。
個人の自由と社会の調和。どちらに行き過ぎても生きづらい世の中が待っているし、その揺り戻しを繰り返しながら、世の中は動いているのかもしれない、と思う。(ここらへんの2つの考え方を行き来する揺らぎについても、影山さん著書「大きなシステムと小さなファンタジー」で詳しく説明されているので、おススメです。)

でも、やっぱり社会があって個人があるのではなく、個人があって社会がある、そう信じたい。大切なのは、一人一人の「~したい」という思いであり、それが誰かの「~したい」と繋がって、一つ一つの小さなファンタジーを形にしていくことが、本当に今の時代は大切なのかな?と思うのだ。

今日は、そんな大切なことに気づかせてくれた、日本仕事百貨さんの「文章で生きるゼミ」の最終日。このゼミの仲間とは一旦ここでおしまいなんだけど、今卒業文集企画を2つ立ち上げようとしていて。その一つは私が企画しているもの。

年末から年始にかけて、色んな人にフィードバックもらいながら、練り上げた企画。今日ゼミ仲間に案内・発表し、賛同する仲間を集め、2025年12月までにはWEBページを立ち上げたいと思っているので、こうご期待。

では、今週も良い1週間を!!









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