樹皮濡れて
*
夜なべてほむらをかこむきみのためくべる夏の樹燃え落ちるまで
すべての朝のためにできるのはきみのため息燃やすことのみ
やがてまたぼくが終わろうとする夜に蝉のぬけがら一切を拒む
なが夢のさなかに存ってわが咎をおもいだしたりさよなら人類
青嵐去って一輪挿すだけの花壜がひとつ行く不明だ
蒼穹に拒まれてなおいじましいおもいをさせる遠いかのひと
水太り葡萄畑のあたりまで汗を流しに歩む虹鱒
油虫殺すひとときやさしさが手のひらのなか炸裂したり
土を踏む素足のままで踊りたい舞台もあらず劇は建ち来る
アーモンド砕いてひとり室に坐すことほぎならぬ味を噛み締め
爆発と祈りのなかを通い来ぬわれら時代の抵抗≪アングラ≫はなし
窓に酔う光りのひとよ特急の新開地にて乗り換えるかな
That's a bloom, やがて消え去る色たちに報いるために死など撰ばず
俳優も暗喩に過ぎず夜がまた建築さるる炎天の星
いずれまた帰る日なんぞ拒みたく史読む夜の裸身を護る
夜がふけて文体ばかり書きかえる暮らしの窓に花が凋れて
望みたる人生・言葉・愛撫なぞ在らしめられぬ青年裸像
生まれ来ぬわが子のため名をつくる──綾芽に莇実──そして岳夫と
さようなら夜の浴室方舟を浮かべる水ももはや涸れ果て
ベーコンの臭う真昼のカフェ過ぎる心になにも持たないなかで
Summer girl, ぼくをいざなうなにもののたしからしさの熱に魘されて
いつだろう きみが再誕するときを指折りかぞえながら死ぬ寂しさよ
審判に遅刻するなりすでにわが檻や棺がならぶ競技場にて
ハーブ園閉じて静かに眠れるを見ておりわれの手のひら冷たし
樹皮濡れてきょうのノートを閉じたりしぼくの牧羊神あらず
*
〇歌論のためのノート
余剰精神の発露を書き留めただけの大衆短歌が横溢するなかで、抵抗文化としての短歌は成立しうるのかが疑問であり、試みである。わたしがわたしであるためにいまいちど立ち止まって考える必要がある。上着を裏返してゆくだけの道が必要である。大多数のひとはなぜ私的であるはずの領域ですらも、他者と同調して譲らないのか。せっかくの詩的作業のなかですらもひとりになってじぶんを大事にできないのだろうかとおもう。もちろんのこと、つくってるひとたちは意識的にそんなことを、みずからの歌の発生場所について考えてはいないだろう。しかし、書くことはつねに質問である以上、それがどこから発生した問いなのかを検証する必要に迫られる。プロであれ、アマであれ、歌人は律と感情との密着あるいは乖離に悩まされるだろうし、作品が連帯性を帯びてゆくなかで苦しみもするだろう。そのことにもっと自覚的であって欲しいというのが、わたしの切なる願いなのだ。短歌が感傷のために吐き出されるのなら、われわれはこの時代に於ける牙をひとつ失ってしまう。いまいちど余剰精神を排除し、引き金をひくように歌をよばねばとおもうのだ。最近の作品でわたしはしきり寺山短歌から離乳を目指している。とまれ、寺山修司から与えられたもの大きい、大きすぎるくらいだ。しかし、いつまでもマッチを擦っているわけにもいかない。つかのまの海の叙情性に溺れるわけにもいかない。いまこそ、それぞれが醒めて歌う必要がある。じぶんだけの立脚点に立って、他者とはちがう歌を詠むために、反時代的な、抵抗文化として歌を詠むために、わたしはわたしの発語の生理、そして余剰を防ぎうる詩論を模索しつづけるのだ。発表する場所が問題だとする声もあろう。しかし、それはちがうとおもう。やはり詩文学への意識的な参画が必要なのであり、それぞれがぞれぞれの歌論や、原点とする風景を持ち合わせていなければならない。そして歌う以上は劇的ありたいし、劇的で暴力的ともいっていいくらいの出会いを生み出したいとおもう。われわれのなかの、”わたし”をいまいちど確かめるためにも。
歌論の筋立てをどうしようか。とりあえず、1)現状、2)歌の生理、3)行為としての詠み、4)抵抗文化としての短歌──というのはどうだろう。なかなかわるくない。しかし全体と個人についての考察をもっと掘り下げたいところだ。せめて詩のなかでは完全なる個人でいたいというのが、せめてもの望みなのである。
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![中田満帆](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/2383806/profile_cbc9fd5938ba45c6143511a79c242e67.jpg?width=600&crop=1:1,smart)