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正直 2

 近所の美人なお姉さん。それは老若男女を差別せずに、微笑みかけてくれる。むしろどんくさくて目立たない存在の者にこそ、優しく接してくれさえする。目鼻立ちも整って、色白で、本人は恥ずかしいと感じるくらいにグラマーで、手足はほっそりしている。
 だがそれは、概念のような存在だ。そんな人がいたならなあ、という夢をみることが、わずかな希望へと繋がる。近所の美人なお姉さんとは、そんな存在だろうと思っている人が多いなか、その存在を認知し、認知され、微笑みかけられたことのある人物がいる。そう、正直まさなおだ。

 その日正直まさなおは、もう遅刻ぎりぎりの時間に家を出た。午前八時三十分に教室に居なくては、遅刻とされる規則だが、かかとの踏みつぶされたスニーカーに、正直が足を通したのが八時二十分だった。家から学校まで、徒歩で二十分。急いでも、走り通せないだろうし、十五分前後はかかる。はっきり言って、家を出た瞬間から遅刻は決定していた。
 一応なんとなしに急いでいる態を保ちつつも、こころには諦めしかない。予定時刻を過ぎて起き、身支度を整えるあたりまでは、驚きと焦りに支配され、精一杯の体力を使って急いでいた。
 いつもの百倍速で階段を降りた正直に、ばあがいつもの感じで微笑み、みそ汁をよそった。いらないと投げ捨てるように言って、倍速で顔を水で擦ってから居間に戻ると、今度はじいがいた。そして一言、あさりだ、と言った。今日の朝飯はあさりのみそ汁だ、の意だ。正直にはそれがわかった。なぜならば正直の好物は、あさりのみそ汁なのである。
 抗えない。正直はすとんとその場に座り込み、待ってましたと言わんばかりに、ほかほかと湯気の立つ椀を、婆が置いた。三つ葉がちん、と乗った小洒落た仕様だ。
 椀にぺこりと会釈をしてからあさりのみそ汁をすすり、目の前に次々と置かれていくご飯、納豆、昨日の残りのおでんを咀嚼して飲み込んだ。ごちそうさま、ともう一度会釈をする頃には、ほぼもう間に合わない時刻となっていた。
 そのまま家を飛び出そうとしたものの、婆が険しい顔で正直を呼び止めた。納豆を食べた後、歯を磨かないと息がくさい。歯を磨け、と。真理だ。正直はきっちり歯磨きをして、のろのろと靴を履いた。もう急ぐ気力は消えていた。

 なで肩と言われる正直まさなおの肩が、さらに下り勾配となっているのは、鏡を見ないでもわかる。それらしい遅刻の理由を探すのも疲れたし、その後の平謝りの時間も、もうすでに億劫だ。とは言え、ずる休みをするにも、いつだって家にいるじいばあを買収して口裏をあわせる必要がある。登校する方がましなのを、正直は知っていた。
 はあ、と嘆息をひとつ落とす。
「正直くん」
 と、鈴の音のような可憐な声で呼ばれる。振り返ると、近所の美人なお姉さんがいる。お姉さんは黒髪をポニーテールに結って、前髪をカールしている。小さな顎をタートルネックのなかに埋めている。つやつやの唇は、優しく弧を描いている。
 ぽかんを体現している正直を見て、お姉さんはくすくすと笑う。笑うたびに、お姉さんの背後にはカラフルな花びらが舞う。
「学ラン、ズレてるよ」
 がくらんずれてるよ?驚いたままの正直の頭の中には、お姉さんが発した言葉の字面だけが流れていく。正直はお姉さんを前に、氷のように固まった。正直には、近所の美人なお姉さんへの耐性はない。
 口を半開きにして硬直している正直に、お姉さんは微笑みながら近づいてきた。一歩お姉さんが近づいてくるにつれ、正直の心拍数が十ずつ上がっていく。
 第二ボタン、と呼ばれる位置のボタンを、お姉さんの細い人差し指がぐっと押した。
 そこは、最も、心臓に、近い、ボタン。細切れな言葉が正直の頭を巡る。
「ボタン、かけ違えてるよ。学校着く前に、直しなよ」
 ふわりと笑ったお姉さんは、まばゆい光に包まれている。眩しくてまぶしくて、正直の目はちかちかした。
 それだけ言ってお姉さんは、正直を追い越して歩いていく。コツコツと低いヒールが奏でるたびに、近づいてきた時の甘い華やかな匂いが薄まっていく。妹の制汗剤の嘘っぽいフローラルとは違う、こってりと真からのいい匂いだ。
 歩くたびにふわんと揺れる、お姉さんのポニーテールを、棒立ちのまま見えなくなるまで見送った正直は、やはりお姉さんに声をかけられた時と同じ顔をしていた。ふぐみたいな口。見開いた目。
 視線をお姉さんに押されたボタンに落とす。学ランのボタンはふたつもズレてかけられていた。左肩だけがつり上がっている、とも言えるし、右裾だけが異様に伸びた、とも言えるシルエット。まあ有り体に言えば奇妙だ。正直はそっと頬を染め、ボタンをかけ直した。
 それからは、お姉さんの笑顔だけを反芻して、ゆっくり歩いて登校した。そして時々、歯を磨けと言ってくれた婆に感謝した。盛大にズレて学ランを着ていることに、気が付かなかったことにも。

 学校に着いた正直まさなおは、寝坊をした、とはっきり理由を述べたし、先生の小言はどこ吹く風で流れていった。朝のお姉さんに比べたら、全ては瑣末なことだった。
 担任からの喝を受け流すだけでなく、授業中もなにかを思い出したようにニヤつく正直を、友人は見逃さなかった。詰問は昼休みに始まった。
 友人は正直に問う。なにゆえに浮き足立っているのかと。訝しげな友人の顔を見て、正直は朝の出来後をすっかり話した。言いたい、言いふらしたい気持ちがあったのも間違いない。
 ぎりぃ、と聞いたこともない音がして、正直はたじろいだ。少し後ずさるほどに。その音は友人から聞こえた気がして、目をかっ開いて観察すると、どうやら友人が奥歯を噛みしめる音だとわかった。眉間に寄った深いしわが、険しい顔に凄みを加えていた。正直は友人のこんな顔を見るのは初めてであった。
 少し緩んだ顔に落ち着いた友人は、今度はずるい、ひどい、信じられないと喚き、なぜその存在を知らせなかったのかと正直をなじり、不公平だと世を恨んだ。そして最終的には、自分も近所の美人なお姉さんを見てみたい。できるならば声をかけられたいと吐露した。
 そうして正直の了承も得ず、放課後は正直の家の近所を練り歩く予定を組み、満足げに机に戻っていった。

 五時間目の古文は、子守唄として最適だ。ふらふらと船を漕ぐ、多数のクラスメイトの後頭部を眺め、視線を窓の外に移す。正直まさなおの日常など興味のない様子で澄んだ冬の空が光る。
 正直は知っている。近所に美人なお姉さんなどいないことを。父、母、爺、婆によって作りあげられたご近所コミュニティは盤石で、年のそう離れていない人物は名前も顔もわかる。どこに住んでいるのかさえ。
 きっとあのお姉さんは、昔から優しかった近所のお兄さんだ。
 鼻をたらした正直にポケットティッシュをくれたり、膝を擦りむいておろおろするだけの正直の膝を洗ってくれたりした、あのお兄さんだ。昔から細くて、顔が小さくて、色が白くて、目がくりくりした、優しい、笑うとかわいいお兄さん。
 正直は、あのお姉さんがお兄さんだということは、友人には言わないつもりだ。正直自身も、今日会ったのはお姉さんだと思っているから。
 正直はお姉さんに会って、胸がドキドキしたことも、半日ぼうっとしてしまったことも、思い出してはにやにやしてしまうことも、大事に大事にしようと思っている。正直はそういう男だ。性別などどいう細かいことなど、特に気にしたりはしない。 
                   (了)


読んでなくても全然困らない、前作の正直。

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