私は苦手だけどなんか楽しい『ソーイング』の時間
小学生の時に買ってもらった家庭科で使う裁縫箱。いわゆる教材チックな、皆と同じセットになったやつじゃなくて、私は容器も鋏も、指抜きや針山やマチ針にいたるまで全部別々に買ってもらった。セットに入っている物と、私が買ってもらった物と、少し形状が違ったり使い方が違う物もあったし、収まりが悪くて持ち歩くと中身が動いてしまったけど、皆のような、四角い箱型じゃなくて、ふたが少し膨らんでいる、ピンクのセルロイド製のマーブル模様の私の裁縫箱は、眺めているだけで嬉しくて、それを入れる袋をおばあちゃんが編んでくれた。巾着型の袋は裁縫箱が縦になっちゃって持ち歩くには少し不便だったけどやっぱり嬉しくて、袋に出したり入れたり、箱のふたを開けたり閉めたりするだけで、お裁縫が好きな人みたいな気分になったもんだった。だけど、実際の私は、お裁縫が苦手で、家庭科が苦手な子どもだった。手でチクチク縫うのはまだ出来る。でも、授業でミシンが登場してからは糸の通し方で挫折して「私には無理だぁー」って早めに諦めてしまったのだった。私の宿題はミシンが得意な同級生が放課後手伝ってくれて、手伝ってくれたというよりほぼその子がやってくれて、そこを、同級生にやってもらってるところを先生に見つかって私はこってりと叱られた。お裁縫以外の他の教科ではわりと優秀な子どもだったので、先生は「ショックです」と言った。私だって、普段先生に叱られたりすることが無かったのでショックだった。
中学生になってからは、私の家庭科の宿題をやってくれるのは私のおばあちゃんになった。お母さんじゃなくて、おばあちゃん。そう、私のお母さんもお裁縫が得意じゃなかったはず。私がまだ幼稚園とか小学校の低学年の頃は既製服ではなく誰かに“縫ってもらった”スカートやワンピースを着せてもらっていた。“誰か”は多分近所の、生地屋さん。お母さんはそこのお店の人と仲良しだったから。それにお母さんはとにかく忙しくて、お裁縫の宿題を手伝ってもらえるヒマがなかったように思う。
とにかくそんなわけで、私はその後もことごとくお裁縫をしなくて済む人生を歩んできた。私を助けてくれるのがおばあちゃんから義姉やママ友に変わっただけで、特に困らなかったし、必要性も感じなければ、自分でやってみようって一念発起する、なんてこともなかった。
そんな私が最近ハマって見ているテレビ番組がEテレでやっている『ソーイングビー』という、イギリスのお裁縫の番組だ。毎週出される課題を挑戦者が時間内に作り、成績の悪い人から徐々に脱落していき最後の1人が決まるまで続く。課題は例えば“80年代のカクテルドレス”を作るとか。“テーブルクロスをリメイクする”とか。色んなバックグラウンドを持つ挑戦者たちの声を日本の声優さんが吹き替えしているのが、これまた楽しい。同じ型紙から同じプラウスを作っても、選ぶ生地やギャザーの入れ方に個性が出て全然違う物が出来上がる。それぞれの個性が声優さんの声質や言葉に表れ、それがピッタリ合ってたりしてて面白い。
審査をする2人も素敵。1人は背が高くてハンサムなおじさま、もう1人は、小柄でとてもオシャレなおばあちゃん。多分どちらも、有名な方なのだろうけど、褒め方がすごく素敵。ダメなところじゃなくて、まずは良かったところをとにかく褒めてくれる。指示した以外の事をやって、それがどんなに細かい処理でも、必要な工程だったり技術的に優れていたらちゃんと気付いて褒めてくれるから、挑戦者たちはどんどん上を目指せる。お裁縫なんて全然興味ないのに毎週それを見ながらニヤニヤしている私って変かな。それを見たからってお裁縫をやってみようとかやってみたいとか、これっぽっちも思わないけど。
でもなんか見ちゃう。きっと、好きなことを楽しそうにやってる人たちは、それを見てる人までも楽しい気分にさせてくれるんだと思う。他の参加者の素晴らしい作品を見て妬んだり僻んだりせず「すごいね」「どうやって思い付いたの?」って素直に認めて褒めることが出来て、休憩時間には皆でお茶しながら「次はどんな課題だろう?」ってワクワクしてて。そういう感じがとても素敵なのだ。私もそういう感じでいきたい(生きたい)なぁって。お裁縫は出来なくても、そこには見習うべき気持ちの持ちようがある。脱落していく人が「楽しかったー」って笑ってて、残った人たちのほうが泣いてるとことか、お互いライバルだけど、一緒に少しでも長い時間過ごせるよう頑張ろうって思ってるとことか。そんなふうに、挑戦出来ることの楽しさを味わいながら、称え合いながら、ずっとカラッと笑っていられると良いな。「この人といると、なんか楽しい」って思ってもらえたら良いな。
そんなことを思ってたら、せめて表情だけでもって思って、テレビを見ながら口角あげてみる。
ニィーッ。