いつからだろう。
いつからだろうか、風鈴の音が室内に入らなくなってしまったのは。
いつからだろうか、打ち上げ花火に気がつかなくなってしまったのは。
いつからだろうか、蝉が啼くの声が耳に入らなくなってしまったのは。
それもこれも全てこの酷暑による気だるさからだろうか。それとも私から来るものによってなのか。
私は田舎にいた頃縁側に寝転びながら、セミの大合唱の中をかき分け風鈴の音に耳を傾け、花火が上がるその時を一番星がやっと見えてきたという時点から空を眺めていた。
蚊取り線香はまだ十分にクルクルと丸まっている。
頭上高くの空の色は、段々と嬉々とした橙色から寡黙で思慮深げな群青へと変わっていく。
太陽の代わりに月が舞台上に姿を表すと、セミの合唱隊は遠くに去っていってしまった。
かぼそく響く風鈴の音は、私の幼心をくすぐる。
月明かりが隣で団扇を仰ぐ母の綺麗な鼻筋の横顔を優しく包み込むように照らす。
昼とはまた違った母の瞳は月明かりで少し潤んで見えた。
三角形やオリオンを指でなぞり、母が切ってくれたスイカを食べた。
少しひんやりとする夜風にあたりながら食べるスイカは、甘くてとても美味しかった。
遠くで一本の光の筋が、空高く登っていく。
その一瞬後、大輪の花が群青のキャンバスにキラキラと咲く。
何度も何度も光の筋が登っていき、そして大輪の花となった。
それを見る母の瞳は宝石みたいに輝いていた。
夜空に薄く微かに残る硝煙に、新たな花が微かにくぐもっている。
なんだか薄い膜を覆ったようなその花々は、何か私を不安にさせたのだった。
仕事帰り、蒸し暑い中途中のスーパーに寄って適当にウィスキーとつまみを買った。
明日は休みだし、のんびりお酒でも飲もう。
灰色の砂漠をしばらく彷徨いながら、我がオアシスにたどり着く。
完全オートロックと謳うこのアパートは北側に窓が備え付けられている。
オートロックの扉をあけて、「ただいま」と口にする。
1Rの蒸し蒸しとした空気にたちまち私の声は吸い込まれてしまう。
返事がないことにまだ少し慣れない。
返事があっても、それは恐ろしく怖いのだけれど。
洗濯をして、朝ご飯で使った食器を片し、シャワーを浴びてメイクを落とす。
お気に入りのルームウェアに着替えると心が休まった。
エアコンは唸りながらもちゃんと仕事をしていてとても偉い。
適当に買ったハーパーを開けて、グラスに氷とともに注いだ。
テレビも何にも面白いのはやってないし、YouTubeもこれといってめぼしいものがなかった。
可愛い女の子がさらにメイクして可愛くなる類の動画や可愛い女の子がさらにトレーニングして可愛くなる動画、あるいは綺麗な女性が数え切れぬほどの種類の努力をしてさらに輪をかけて美しくなる動画というようなタイプの動画を気が付くと見ていた。
結局は自己満足なのだと分かってはいるけれど、手が忙しなく口へとグラスを誘い、止まらなくなってしまう。
エアコンは変わらず唸り、スマートフォンは相変わらず皆が目指すべき美といった、仰々しいものを語っている。
機械にイデアを語らせてたまるか私は人間だぞ、とその状況にひどく怒りを覚えスマートフォンをベットに叩きつけた。
しかし、延々と飽きずに語っている。
もううんざりしてしまった。
ウィスキーをグラスに注ぎ、氷をカラカラ鳴らしたり、指でくるくるしたりした。
部屋の壁際に備え付けた本棚にある太宰治の『女生徒』は、私を訝しげに眺めている。
時代は変わったんだよ、変わらないことの方が多いけど。
忙しすぎて七月から変わっていなかったカレンダー、八月はもう終わろうとしている。
気が付いたのが遅すぎる。
私そんなにお酒強くないのになと思い始めた頃にはもううとうとし始めている。
瞼が重くのしかかって、思考が遠くにいってしまう。
遠くの遠くの懐かしい記憶に触れる。
この気持ちよさに身を委ねていたい。
眠たい。
あぁ、まだ歯を磨いてないのに。
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