「啓蒙とは何か」感想 蒙を啓く、啓蒙-
先日、第11回読書会を無事終えることができた。今回の課題本はイマヌエル・カントの「啓蒙とは何か」。
本書は個人的に思い入れの深い書籍で、学生時代のバイブルといっても良いほど大好きなもの。カントという哲学者が元々好きで、時間があるのに任せて図書館で全集を読破したのは大学時代の良い思い出のひとつ。
カントの哲学のエッセンスを自己流にまとめるならば、「自分の頭で考えること」「首尾一貫した自己を持つこと」「他者の立場に立って考えること」であると思う。
カントの哲学は難解であり、長大であるのだけれど、本書はその中にあってかなり短く、また内容も簡潔で手に取りやすいものであるといえる。カント自身は国際都市ではあるが、故郷のケーニヒスベルクから生涯出ることもなく、独身を貫いた人物でありながら、非常に多彩かつ長大な哲学を残した。彼の功績はイギリス経験論と大陸合理論とを統合し、批判哲学というものを創設したことが教科書的な説明である。
冒頭の「啓蒙とは、人間が自分の未成年状態から抜け出ることである、ところでこの状態は、人間がみずから招いたものであるから、彼自身にその責めがある」とは有名な一節であるけれども、カントの結論とは「自分自身の悟性を使用する勇気を持て!」に集約される。
本論は主に宗教上の啓蒙についてであるが、冒頭の一節は広く人間が生きていく上で示唆に富むものであることは間違いない。
読書会においては、カントの文体、ひいては哲学の持つ特徴的文体について話しが及んだ。その中でドイツ語というものは、哲学をするには親和的な言語である、との指摘が他でもあり、それはドイツ人に哲学者が多くいることも併せて、なかなか説得力のあるものだと感じた。
また、「自然」という言葉の使い方についても、あたかも「自然」が自ら意志を持っているかのような扱いで使用しており、ここに日本語としての「自然」との文脈の違いから、理解するのがなかなか難しい、との指摘も出て、言語学上のそれぞれの言語の差異というものに話しが及んだ。日本語という言語はひとつの単語に多義的で曖昧な適用範囲が許されるものであり、この点が英語などと異なる点である。さらにドイツ語には女性詞、男性詞、果ては中性詞まであるものであり、それぞれの単語がどのような文脈で使われているのかは気になるところである。
歴史的な流れで言うならば、カントは江戸時代の政治家である田沼意次とほぼ同世代であり、この西洋と東洋との比較は面白い。カントが人間個人の知性や理性のあり方に言及をしていた一方で、封建体制を敷いていた日本との対比は自分にはない視点であり、歴史の流れ中で作品を捉え直すこともまた必要であると感じた。
また哲学におけるキリスト教の影響についても話しが及び、他の多くの西洋哲学にも言えることではあるが、キリスト教が信仰されていると疑いのない文章構造は、アジア人から見るとある種の異様さを感じることも共有できた。この辺りはルネサンスを経ると、より自由な色合いを帯びるものの、哲学と宗教(キリスト教)との分離というものは、西洋哲学において完全にはなされていないようにも思える。
「啓蒙」という言葉について、これを現代の言葉に置き換えるならば、「リテラシー」がそれに近いように個人的には思える。主体的な知的活動のことをカントは指すと考える。
この「啓蒙」というものと、現代社会のあり方を考えると、カントの言うような知的あり方というものは随分と危機的状態にあるのではないかと感じる。文春オンラインには奇しくも「ごんぎつねの読めない子どもたち」というような記事が掲載されていたが、読解力の著しい低下はそのまま体系的な思考の衰退をも意味すると思う。大学生の半数が1ヶ月で1冊も本を読まない、というのは数年前に話題になった。また現代人は最も歴史上、最も急いでいる人種であるとの指摘があり、この辺りも非常に興味深い現象であると思う。確かに、知識はカントの生きた時代よりも溢れているのだが、現代人にはそれらを吟味したり、ゆっくりと触れる瞬間とはかけ離れている。
思考の源とは言葉であり、それに対する鋭敏さというものが失われつつあるという現状を考えるに、この「啓蒙とは何か」は多くの人に手に取ってほしいと改めて思う。