星は二度、消える【短編小説】【3000字】
惑星が消失した、というニュースを見た。
その日の深夜、わたしはコウちゃんと消滅した星を観測するために、近所の公園へ足を運んでいた。どの星かな。あれじゃない?これかもよ。言葉を交わすたびに漏れる息は白い。都会の中でもわたしたちの住まいは明かりの少ない土地のはずだが、それでも星を確認するのは難解なことだった。よく晴れた冬の夜でも、それは変わらない。
公園にいるのは二人だけで、厚手のダウンジャケット着こんだ姿は宇宙飛行士に似ていた。わたしたちは手を繋いだまま滑り台をのぼる。片手が塞がるのは少しだけ怖いことだ。公園でもっとも宇宙に近い場所に立ち、たった二人でもう失われた光を探している。なんてロマンティックなんだろう。
「まだ見えているのに、もう存在しないんだね」
コウちゃんが夜空を指さす。消えてしまった星かどうかはわからなかったが、指先に位置する星はどれよりも尊かった。そのときのわたしたちは月面着陸したニーム・アームストロングとおなじ気持ちだったと思う。
恋の終わりが訪れるのはいつだって突然だ。
気づかぬ間に少しずつ終わりは近づいている。今ここにあるのはすでに失われた光なのか。それともたしかな光か。いつも私たちは判断を間違う。答え合わせを待つとき、それを「時間が解決する」と人はいう。
◇
「寂しいときに思い出す恋人とは復縁しないほうがいいですよ」後輩に言われて、私はへえ、と生返事をした。
新卒でこの会社に入社してから3年。プロジェクトは佳境に入っていた。わたしがリーダーになってはじめて受けた案件だった。ここまで積み上げてきた努力が報われたなら、自信もってコウちゃんに会いに行ける気がして、成功させなければならない使命感が私をひたすら突き動かしていた。
聞いてますか?と言われて、ようやく顔をあげる。
「頑張っているのもどうせ、コウちゃんさんのためなんですよね」後輩の呆れ顔は見慣れたものだ。以前、同期のひとりが後輩のことを端正な顔をしていると話していたが、わたしの前ではいつも歪んだ表情しか見せないので、共感することができなかった。
そんなんだから、イタイ女とか言われるんですよ。後輩の説教じみたアドバイスを流して、わたしはパソコンに視線を戻した。
イタイ女。そんなこと自分が一番わかっている。
しかし、そんなことはどうでも良かった。むしろ忘れられないような恋のひとつもしていない人たちが可哀想で仕方なかった。コウちゃんとの恋は北極星みたいに、行くべき先に輝いていた。
◇
「別れよう」
それはパスタが運ばれてきたときだった。突然のカミングアウトに私は飲みかけのお冷を少しだけテーブルにこぼした。店員もこぼれた水に気がついていたようだが、拭こうにも両手がパスタの皿で埋まっていために、結局、水がこぼれたテーブルの上にパスタが置かれた。
それほどにタイミングは最悪だった。
あっけにとられて食事どころではないわたしには目もくれず、コウちゃんは話を続けた。いくらとサーモンの親子パスタは、わたしの心のように膨らんで伸びきっていた。話を聞きながら、いくらを一粒ずつ潰した。鮮やかな朱色がパスタに伝って、流れて、溶けていくのに、何も感じなかった。
いつまでも忘れられない割に、別れ話を突き付けられても涙は出なかった。
その日の夜、彼のベッドに二人で眠った。触れ合うか触れ合わないか絶妙に開いた隙間がわたしたちのお別れを示していた。コウちゃんはわたしに背を向け、左半身を下にして眠っていた。わたしは仰向けで目をつむりながら、コウちゃんの寝息を聞いていた。
まぶたに広がる暗闇で記憶をひとつひとつ辿った。これまでの私の至らぬ点を数えた。それは星を数えるように際限ないことだった。至らぬ点を不規則にまぶたの裏に並べていく。共通を見つけては線でつなぎ合わせて、星座をつくった。どの星座も情けなくて、名前はつけられなかった。
次の日、わたしが荷物をまとめている間、大した話もせずにコウちゃんはそそくさと仕事に出かけてしまった。「鍵はポストにでも入れておいて」それが直接聞いた最後の言葉だった。
この駅にはもう来ることはないのだろう、ホームに設置された錆びれたベンチに座って思った。快速電車の止まらない不便な駅だった。快速や特急を何本か見送るために、いつもホームの向かいにコウちゃんを待たせた。わたしが電車に乗るまでの間、メッセージを送り合った。
帰るのがいやで、わざと普通電車を見送ってもコウちゃんは怒らなかった。見送るたびに、体が冷えるよ、家の人が心配するよ、と確信には触れない言葉ばかりが送られてきた。本当は帰りたいのに、いつまでもわたしが帰るのを待っている。それがなんだか嬉しくて、何度も見送っていた。
そんなやり取りを読み返していると、新規のメッセージが一件、届いた。
「愛してた」
未練がましく送られてきたメッセージは流れ星みたいに降ってきた。そのまま膨れ上がった風船みたいな心に突き刺さって、爆発を起こした。それほどに鼓動は速く、心臓はギリギリと痛んだ。発狂しそうになるのを抑えて、わたしはコウちゃんの連絡先を消した。なんのことばも返さなかった。振られたわたしに伝えられる想いなんてない気がした。
それから普通電車を3本見送った。
振られてからの3年間、原動力はコウちゃんだった。わたしは節目節目で彼を思い出していた。就職活動。新卒一年目の研修。はじめてのクライアント。いつかもう一度あなたに会ったとき、目の前に立っていられる勇気が欲しかった。自立して、綺麗になって、お金を稼いで、幸せになって。
ぼやけて消えていくコウちゃんの表情を毎晩のようにまぶたの裏で探した。光はまだそこにあった。消えてしまわないように何度も残像を焼き直すが、コピーを繰り返して薄くなっていく。それでも、輪郭さえ残っていれば、それだけで良かった。
◇
あの日、観ていた星とわたしたちは何光年の距離があったか知っている?知っていたら、光を失うまでカウントダウンくらいしたのに。
何光年が経っただろう、その日は突然訪れた。
プロジェクトが成功を収めた夜、打ち上げですっかりできあがってしまった身体で最終電車を待っていた。わたしは向かいのホームを見つめたまま、湧きあがらない感情に違和感を覚えていた。
なにかが思い出せないのだ。プロジェクトが成功して一番で伝えたかったのは誰だった?ここまで努力をしたのは誰のためだった?
まぶたを閉じて夜を辿ると、かすかに光っていた。ゆっくりと優しく輪郭に触れるとたしかにコウちゃんの形をしていたので、わたしは静かに泣いた。
失恋は時間が解決するなんてことばを、わたしは信用していなかった。だって恋を失う感覚なんて知らなかったから。
今わかった。恋は星に似ている。
別れたときを宇宙での爆発だというならば、あなたを忘れてしまった今は、地上で観られなくなった瞬間なのだ。わたしは失ったことに気がついていなかった。だってまだ見えていたから。そこでたしかに光っていたから。
快速電車が過ぎていく。轟音が耳に反芻する。あなたのことを捉えていた残像はもうすぐ消えてしまう。ホームの向かいにあなたはいない。恋は消滅していく、それでも私は立っている。大切な恋は二度、失われるんだね。
二人で探した星の光は二度と見られない。そう思うと、また泣けた。