滞りなく、流れる【短編小説】【5000字】
海辺の家に住みたいと思ったことは一度もなかった。それなのに、生まれてからずっと海が見える家に住んでいる。
今朝も波の音で目を覚ました。まだ外は暗く、朝は来ていないようだった。最近、眠りが浅い。寝覚めがいいはずのヤスヒロさんよりも早く目が覚めてしまう。二度寝をしようにも眠れそうにない。仕方がないので、最近は顔を洗って、歯を磨いたら、ランニングウエアに着替えて、浜辺を走ることにしている。朝日でほんのりと輪郭を見せる浜辺で、クリーム色のゴールデンレトリーバーを散歩しているご近所さんと、すこしだけ世間話をして、家へと戻る。
玄関を開けると、潮の香りとコーヒーの匂いがして、ヤスヒロさんが起きていることがわかった。潮の香とコーヒーは案外と相性がいいということを、この家に住み始めてから気がついた。開け放たれたベランダの窓からは廊下を抜けて、心地よい風が入ってくる。白いプリーツカーテンは朝日を反射して少しだけ眩しい。朝起きたら、必ず空気を入れ替えることがふたりの暗黙のルールだ。
「おはよう」ヤスヒロさんはすでにパジャマからシャツに着替えていた。朝は時計よりもルーティーンで時間を判断することが多いように思う。ヤスヒロさんが着替え終わっているということは、いつもより遅くなったはずだ。
「ごめんなさい、すっかり遅くなってしまって」わたしは急いで朝食の準備に取り掛かろうとしたが、ヤスヒロさんはそれを手で止めた。
「いいんだ、ゆっくりとシャワーを浴びてくるといいよ」そう言いながら、マグカップにコーヒーを注いだ。
ヤスヒロさんの表情はあまり変わらない。口角も、眉もまるで優等生みたいに、いつも決まった位置をきちんと守っている。でも、瞳だけはいつもやさしい。見つめていると、こころが両手で包まれたみたいにあたたかくなる。だから、ヤスヒロさんが笑っていることは、わたしにはわかる。
わたしがシャワーを浴びて戻ると、窓は閉められていて、取り付けられたファンヒーターで部屋の中は十分なくらい暖かかった。テーブルにはトーストと目玉焼きとウインナー、それからちぎったレタスとツナ、それからプチトマトがのった簡易的なサラダがお手本のようにテーブルに並んでいた。わたしたちはそれを食べて終えてから、コーヒーを淹れ直して、読み物をはじめた。
新聞を読むヤスヒロさんの向かいで、わたしは読みかけの本を読む。新聞と本が擦れる音が波の満ち引きと重なって波紋のように響く。ささやかだけれど、穏やかなひとときが生活を豊かにした。
「朝食の準備までしてもらって、ごめんなさい」美味しかったわと、言うと、それはよかった、とヤスヒロさんがこちらを向く。読み物をするときだけ眼鏡をかけている姿は特別感があって、とても好きだ。
「今日はいつも早く目が覚めたんだ」時計を確認すると、たしかにまだ7時だった。家を出るまではあと1時間近くもある。わたしは少し安心したが、反対に、今度は自分のことが心配になった。
「最近、どんどん目が覚める時間が早まってるの」淹れたてのコーヒーに牛乳を入れながら、わたしは言った。
「寝坊するよりはいいんじゃないか」
「そうなんだけど、昼間眠たくなってしまうのよ」昼間に特段しなければならないことがあるわけではないけれど、後ろめたくて昼寝なんてできそうになかった。
「そうかあ、夜は眠れている?」
「眠れているような気はするけれど、なんだか眠りが浅いのよ」ヤスヒロさんはそれは困ったな、と言って、わたしの読んでいる本に視線を落とす。
「珍しいものを読んでいるんだね」わたしはそう言われて、ドキッとする。
「ええ、ちょっと勉強しようかと思って」これ以上言及してほしくなくて、読み終わっていないページをめくった。≪あなたの人生を決めるのは、あなた自身です≫次のページにはそう書かれていたが、なんでそんな話になったのかわたしにはさっぱりわからなかった。それにこの本に書かれていることは、はじめから理解不能だった。
わたしは読んでいた本を置き、ヤスヒロさんのスーツをスチームアイロンにかけることにした。机には、『もう他人のために生きない!利他的さんのための生き方講座』といういかにもベストセラー本のテンプレをなぞった自己啓発本が置かれた。これからはヤスヒロさんの前であんな本を読むのは止めよう。やっと体調も安定しているのにわたしのことで心配をかけるのはよそう。
それからわたしは皺ひとつないスーツを着たヤスヒロさんを見送って、考える。今日も滞りのない一日のはじまりだっただろうか。川でいられているだろうか、と。
ヤスヒロさんとこの家に住み始めてから3年が経とうとしている。郊外にある海沿いのこの街にはわたしの実家もあった。それまでは都内にあるマンションの2LDKの部屋に暮らしていた。それまで同棲もしていたので、結婚生活は順調だった。しかし結婚して1年経った頃、ヤスヒロさんが仕事中に倒れた。勤めていた会社の業績不振に伴う過労が原因だった。そのままヤスヒロさんはしばらく休職することになったが、不運なことは立て続けに起こるものらしかった。そのあとすぐに実家でひとり暮らしをしていた母の容態も悪くなった。そのためヤスヒロさんと母の面倒を見るためには、実家でともに暮らすのが一番良いということになり、ふたりでこの街へと引っ越してきた。
老人ホームのスリッパが緩くてパカパカと子馬が歩くような音が廊下に響く。前を歩く介護士さんのあとを遅れないようについていくと、上履きを忘れてしまった学生時代のことを思いだす。歩くたびに、うっかりものですよ、と挨拶しているみたいで、後ろめたい気持ちになった。スリッパを返しに行くときの廊下はいつもよりも長く感じたものだ。
「後藤さん、娘さんが来てくれましたよ」後藤さん、娘さんですよ、介護士さんは先ほどよりも少しだけ大きな声で母を呼んだ。母は窓の外をぼんやりと眺めるだけで、返事はない。案内してくれた介護士さんはわたしに会釈をして退室すると、部屋にはわたしと母だけになった。わたしは母に話しかけた。
「お母さん、久しぶりね。どう?体調は変わりないかしら。あのね、ヤスヒロさんすっかり元気になったのよ。今日も早くに起きて、朝ごはんを用意してくれたりしてね。とても美味しかったわ。もう、わたしがあれこれ面倒見なくても大丈夫そうよ。やっぱり郊外は空気が澄んでいるのかしらね。」母はこちらを向くこともない。わたしが横にいることさえ気がついていないのかもしれない。
「わたしね、母さんが家にいなくってすこしだけさびしいの」本心だった。ヤスヒロさんにも母にも健康で元気になってほしかった。だからなんでもした。もちろん勤めていた会社は辞めて、定時で帰ってこられるような事務仕事を週3日ではじめた。幸い、保険もおりたし、貯金もあったので生活が困窮することはなかった。自分の睡眠時間も削れるだけ削ったし、息つく暇があればふたりのために尽くした。ここ2年くらいは自分よりもふたりのことが何より優先だった。
ぽつりとこぼした本音を聞いたら、母がなにか答えてくれるかもしれないそんな淡い期待をし、しばらく黙って母と同じように外の景色を眺めていた。窓の外は決して景観がいいとは言えず、生い茂る木がほのかに枝を揺らすのを観察することしかできない。いずれ来る別れだとしても、せめて海の見える施設にしてあげればよかった、そう思うと、景色が滲んだ。
「お母さん、また来るね」効きすぎた暖房のせいで、じわじわと脇や膝の裏に汗をかいていることに気がついた。中学校生活最後の夏休み、汗と体育館履きのゴムの匂いがむせ返る体育館の熱気と服の中の様子が似ていた。
「ごめんね、ナツコちゃん」
「ほら、そうやって逆撫でる。よくそんなこと言えるよね」
わたしはたしかにごめんね、と思っていたのに、ナツコちゃんには伝わってない。逆撫でる、なんてことばを使う彼女は大人びて見えた。
「うちらはいつも本気で言ってるのに、あんたはそうやって流してばっかり。何考えてんのか、まじでわかんない」ナツコちゃんを中心とした何人かがわたしを囲むようにして、泣いたり、怒ったりしている。
「後輩にスタメン取られて、あんた悔しくないの?」ナツコちゃんは自分で言っていて、また悔しくなったのか、泣きはじめてしまった。それを見た周りの子たちも泣きだして、わたしは余計に困惑した。
中学生の頃、わたしは女子バレー部に所属していた。県内でも強豪と呼ばれると学校だったため、部員数がかなり多くスタメンは取り合いだった。わたしもナツコちゃんも目の前にいる何人かの同級生も、最後の大会で出場メンバーには選ばれることはなかった。
わたしはちっとも悔しくなかった。それがチームのためになると思ったから。わたしは自分の結果よりも、チームの成果のほうがよっぽど重要だったのだ。結局、ナツコちゃんを含む同級生6人は、その日限りで部活動を辞めた。そのとき、わたしはみんなワンフォーオール、オールフォーワン、などむずかしいことばを並べているだけで、チームのことなどは考えていないのだな、と思った。
今にして思えば、彼女たちが正常でわたしが異常だったのだ。わたしには誰かのために生きることが自分のためだった。それは今も変わらないのに、それなのに、とても苦しい。
西日が差す帰りのバスには、杖に両手をついて眠っている老人とランドセルを前に抱えているこどもがいるだけで、まるでゆりかごのように穏やかだと思った。ランドセルにぶら下がる鈴の音がバスの揺れに合わせて、チリンチリンと鳴っている。音色が夢へと誘うように、わたしは窓にもたれて眠りについた。気がつけば、駅前の停留所に止まっていて、車内は人でいっぱいだった。鈴の音はめっきり聴こえなくなった。
最寄りの停留所で降りると、偶然にも仕事帰りのヤスヒロさんがいた。「りっちゃん、一緒に帰ろう」りっちゃん、そう呼ばれるのはいつぶりだっただろう。わたしはヤスヒロさんの隣を並んで歩いた。
「りっちゃんは川みたいな人だね」何度目かのデートのときにヤスヒロさんはそう言った。
「川?」私は聞き返した。
「川は絶えず、海へと流れていくだろう」当時、ヤスヒロさんの担当として営業事務をしていたわたしの仕事ぶりを見て、そう思ったのだと、ヤスヒロさんは言った。川というのはよくわからなかったけれど、認められたことが嬉しかった。わたしは営業事務の仕事が好きだった。直接じゃないけれど、わたしの仕事が彼の数字となって表れる。だれに褒められなくても、これはわたしの数字でもある。そう思えるだけで、幸せだった。
「川が見たいわ」わたしは確かめたかった。今、そのことばを理解したかった。ヤスヒロさんはじゃあ、今すぐにいこう、と言って、伝票をもって席を立った。そのあとふたりで川を探したけれど、近くにはなく、結局、ヤスヒロさんの真意とわたしの解釈を一致させることはできなかった。それでもふたりで街を歩いていれば、こうやってこの先もずっと歩幅を合わせて歩いていけると思ったものだ。
並んで歩いているうちに、川が見えてきた。海へと向かう下流に沿って歩けば、家へと辿り着く。
「ヤスヒロさん、わたし川じゃないわ」ぽつりとこぼれ落ちた。そこからはもうダメだった。決壊したダムのように涙がドバドバと溢れてくる。
「りっちゃん、ごめん」普段表情の変わらないヤスヒロさんの眉が下がっている。わたしは首を振りながら、ちがう、ちがうのよ、とつぶやいた。こんな顔をさせたいわけでも、ましてや責めたいわけでもなかった。ただ、あなたを乗せて上手に流れている気がしないのだ。
「最近のわたしはめっきり滞ってしまってるのよ」気がつけば、わたしは泣いていた。目に見えて何があるわけじゃない。でも、例えようもない不安がまとわりついているのだ。不純物が流れて、そこにいくつもの枯れ木や小石、虫の死骸などが複雑に絡んで腐っている。取り除こうにもなにもできない。川は重力に従って、海へと水を流すだけだ。詰まっていても、どうしようもできない。
「このままじゃ、ヤスヒロさんが沈んでしまう。わたしが上手く流れていかなければ、」わたしが、わたしが、わたしばかりが、こぼれていく。りっちゃん、りっちゃん、ヤスヒロさんがわたしを呼んでいる。たぶん、沈み溺れしまいそうなのは、わたしの方だった。
「ぼくたちは一緒に流れているんだよ」抱きしめてくれたヤスヒロさんの心臓の音が痛い。ごめん、なんて言ったらいいのかな。
「ぼくは君と一緒に川になりたかったんだ」ヤスヒロさん越しに、目の前を笹舟が流れていく。滞りなく進め、どうか、海まで、滞りなく運んでいけ。