読書:『影裏』沼田真佑
書名:影裏
著者:沼田真佑
出版社:文藝春秋
発行日:2017/07/28
http://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784163907284
ぶっとんだ書き方をしているわけでもなく、むしろ堅実な作風なのに、いろいろと理解できなくて、しつこく5回ほども繰り返し読んでしまいました。よくわからないので、こんなはずはないと思って。芥川賞で高く評価されているし。
その結果としての感想ですが、再読の意味はある作品だと思います。
初読のときは退屈さを強く感じたのですが、2度目、3度目としつこく読むとだんだん印象が変わるのを感じました。
ぶっちゃけて言うと、先を読みたくなる吸引力には欠けています。特に初読では。
全体的な構成もだが、文章もそう。
文章はうまいが、魅力があるというわけではなく、いわば教科書みたいな感じ。描写は細かく、手抜きがないし、うまいなあとは間違いなく思うのだけど。
いやに退屈に感じたのは、興味のない釣りの描写が長々と続くからかなとも思ったけれど、いや、そういうことでもないんですよね。たとえば夢枕獏さんが書いている釣りの話などは、えらく面白かったりするわけで。
で、釣りの話、と見えて実体は異なる作品なのだけど、それにしても釣りの部分の比重が大きすぎるんですよね。釣りの話、ということでいいんじゃないか、と言いたくなるほどに。釣りが好きな作者なのかな。それで力が入ってしまったのかもしれないけれど。
そして、インターネットなどでレビューを見ても、多くの人が引っかかっているところがやはりぼくも気になりました。
ひとつは、LGBT。突然出てくる。思わせぶりに。でもって、けれど、特に何もない。
性適合手術をして女性になったとおぼしき元男性。男性だったときには主人公とつきあっていたとも思われる。ということは、主人公は同性愛者ということなのか? などと考えていると、電話で世間話をして、それだけ。
サラッと見過ごすには大きすぎる設定で、読者としては何かの意味があるに違いないとどうしても思ってしまうのだけど。それ以上、どうこうという話にはならない。
あえていうと、日浅の方の話で、「日浅は子供の頃、決まったひとりの相手としか遊ばない子だった」という父親の話がかすかに関連してきそうな気もしてくるが、こちらもそれ以上、話が進まない。
「決まったひとりの相手としか遊ばない子だった」と思わせぶりに出てきて、しかしそれだけで次に話が進むので、え? それがどうかしたの? という疑問だけが残る。
次に、東北大震災。
前半部はまったくそのそぶりもなく、後半でふいに東北大震災が出てくるんだけど、ここで大震災を持ち出してくる意味がよくわからない。はっきり言ってしまえば、大震災を持ち出さなくても成立する作品なので。
ただ扱ってみたかったから無理矢理出してみた、というくらいにしか受け取れませんでした。
そして、もうひとつ。
気になって気になって仕方のないところ。
ラスト付近で、歩いていた主人公が蹴ったらバッタがどんどん出てきて、さらに蛇も出てきた、というところの文章。
そのまま引用します。
逃げまどうバッタの群れのあいだから縞蛇の子供が這い出してきた。震災後間もないころのことだったか、営業を休止していた釜石市内のある銀行のATMを、バールで破壊しようとして逮捕された男の名前が朝刊に出ていた。竿で小突いても蛇の子は全然動じず、わたしは日浅がその男の同胞であるのを頼もしく思った。
どうですか?
なんかおかしくないですか?
まず、最後の文章。
「竿で小突いても蛇の子は全然動じず、」「わたしは日浅がその男の同胞であるのを頼もしく思った」
……関連がないですよね。上の文章と下の文章とに。
突いても蛇が動じないので、日浅のことを頼もしく思った。
???
ちなみに、文章が下手とかそういうことではないと思います。ほかにこんな変な文章はないですし。わざとこう書いているのです。
解釈のひとつとしては、逃げまどうバッタは、震災被害者の姿。
動じない蛇は、震災被害者たちの脇からしたたかに出てきたATMバール男。
そう読めそうな気はします。
しかしここで、第2の疑問。
「日浅がその男の同胞であるのを頼もしく思った」の「その男」とは、ATMバール男のことだとしか考えられません。
それはまた「動じない蛇」とも呼応しますね。蛇=ATMバール男です。
こう解釈すれば、確かに、蛇とATMバール男と日浅がつながってきます。
蛇を見て日浅のことを思ったというのも納得できそうです。
しかし、そうすると結果的には、この小説はATMバール男を称賛しているということになります。
震災に挫けず悪事を働いて新聞報道されてしまう頼もしい男だというわけです。
ATMバール男を称賛。
それでいいのですか?
それがこの小説の結論なのでしょうか?
この小説は確かにそのほかの部分でも、ろくでもない男の日浅を悪くは書いていないんですよね。父親の言葉を除いて。主人公は日浅に対して異常に寛容です。
こうして考えてみると、この小説、というか、これを書いている著者に不気味なものが感じられてきます。不気味というか、気持の悪さ。
芥川賞の選考委員たちは、このあたり、どこまで読み取ったのかな。
それぞれの解釈を聞いてみたいですね。
ところでですね。
これ。
本当のテーマは、震災ではなく、LGBTでもなく、釣りでもなく、実は、著者と彼の父親との確執を描いた小説なのではないかと思いました。
日浅が著者です。
だから、日浅はこの小説で大切に扱われています。
特に日浅の父親が言う言葉、「いずれにせよ何らかの事件で、あの男の名前は新聞にでますよ。私は確信しています」は、著者が実際に父親から言われた言葉のように思えてなりません。
おまえみたいなやつは、いつか事件で新聞に載るよ。
ああ、新聞に載ってやるよ、作家としてね。そんな、突かれても突かれても動じない蛇のような思いで書いた小説がこれ。だとすると、著者は今頃、してやったりの気持でいっぱいに違いありません(妄想)。
にしても、ATMバール男への称賛は理解できないのですが。
あなたはどんなふうに感じましたか?